要らないのに手放せないのはなんで?
こんにちは、お久しぶりです。
実は3週間前に初めてのヨーロッパ旅(ドイツ&チェコ)から帰国してきました!
流れに任せて生活していたら、何だかんだあっという間に1ヶ月が過ぎようとしていてとても驚いています...((怖)
『要らないのに手放せないのはなんで?』
このタイトルは2020年8月25日に下書きで書いていたものです。
あの時、書きたかった内容は正直全く思い出せないのですが、今の私にぴったりだなと思って引っ張ってきました。
本当は必要ないのに、
本当は無くても生きていけるのに、
手放せていないもの
ありませんか?
私はたくさんあります。。。
全く使っていないスマホのアプリ
X(旧Twitter)、Facebook、どっかのお店のやつ...
いつ撮ったのかもわかんないスクショとか、なんで撮ったんだろとか、もう要らないのに残り続けているカメラロールの写真や動画...
全然着てないけどいつか着ると思ってクローゼットに眠らせ続けている服...
一時期狂ったように回し続けていたガチャガチャのコレクションたち...
(ついでにクレーンゲームで撮ったフィギュアも)
あぁ
書き出しているだけでも少し頭が痛くなりそう笑
特に課金しているもの←
"もし" この事に使っていたお金が手元にあるのなら、、、なんて考えてしまえば。。。
どっかに、旅行行けちゃうななんて、考えてもどうしようもない想像が膨らむばかりです。
でも、こういうのって私だけでは無いのではないかなぁ?なんて思っていたり。
あとは、モノだけでなくココロも。
人間、なかなか手放せない固定観念や無かったらもっと楽なのにいなくなってくれない感情や思い出みたいなものもあるのかなと思います。
私たちが、要らないのに手放せないのはなんででしょう?
なぜそこに執着してしまうのでしょう?
めんどくさい?
忙しくて片付ける時間がない?
自分を見つめる余裕がない?
それとも
恐怖心?自己愛の欠け?承認欲求?
何かの穴を、代わりに満たそうとしている?
・・・
色んな答えがあるかもしれません。
複雑に色んな事情や要因が絡み合ってるかもしれません。
わからないけれど
でも、ひとつ考えられることは
その時の自分にとっては必要だった、そして
今アップデートした自分には必要なくなった
ただそれだけかもしれない。
要らなくなったら捨てればいい。
これは簡単だし、日常的に人間が行う行為の一つでもあるけど、そこに思い入れや少しの感情が入るだけでなかなか『捨てる』『消す』といった行為には繋がりにくいのかなと。
また、『もし』があるとなかなか手放すことができません。
『もしかしたら、また使う時が来るかもしれない』
『もしかしたら、また連絡が来るかもしれない』
『もしかしたら、また着る時が来るかもしれない』
インサイド・ヘッド2に出てくる
『シンパイ』のせいかもしれません。
自己防衛、失敗や不安から逃れるための人間の感情の一つなのかもしれないな、なんて。
これがシンパイのせいなら、無理に一掃しなくてもいいのかもしれないけれど、自然の中で豊かに暮らしている(ように見える)人々や、SNSは全くやっていない友人を見ると、何だか身軽な感じでいいなぁと思ってしまう自分がいます。
それをしなくても成り立っている生活、成り立っている人間関係、そういうものが羨ましいのかもしれません。
職業柄、発信媒体はどうしても必要(と思っている)なのですぐには辞めるという選択肢は取らないつもりですが、気持ちだけはいつだって身軽でいたいなぁと思っています。
これは全然関係ないけれど、発信媒体がたくさんあって自分の体が四方に引っ張られている感覚が最近離れません。
あっちもやって、こっちもやって
今は色んな事にチャレンジして手を伸ばしていきたい、蒔いた種をあらゆる方面に幹として伸ばしている時期なのだと思います。
ただ、それが悪い方向に「分散」しないために、自分が本来したいこと【本質】と【目的】は忘れないようにしないと、と。
何事もしたいから→する
この矢印で生きていきたいのです。
義務感から、しなきゃいけない→する
は私にとって苦しくなることが多いから。
見失わないために、この記事を綴ります。
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