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「有名」の貧困さと「無名」の豊穣さ

ネットニュースに京都の「観光公害」のことが書かれていた。ゴミの散乱とか、バスのひどい混雑とか、私有地やこれに類するところへの立ち入り等である。観光都市が観光で苦しんでいるのである。

オーバーツーリズムとも呼ばれるこの問題は、ともかく一定の観光エリアに過度に観光客が集中することから生じる。

解決は簡単である。そこに行かなければいいのだ。観光で食べているところは、規制をかけたり、観光客を追い払うのは難しいから、観光客の側でそういうエリアを避ければいいということになる。

私などは人混みがあるというだけで気分が悪くなってくるから、よほどやむを得ない事情がない限り、そういうところを訪れることはない。そもそも人が群れるところがいやなので、自転車で旅をしたり、車中泊でほとんど誰も来ないローカル線の駅に泊まったりするのだ。

でも世間の多くの人はそうではないようだ。混雑すると分かっていても、京都のような有名観光地に行きたがる。不思議だ。

「有名」であるところには、「有名」であるがゆえの価値があると思ってそのようなところに足を向けるのであろうが、観光公害が標榜されるような街では、それは幻想である。豊かさを求めて観光的有名地を訪れた挙句、無粋な混雑やゴミがあふれたゴミ箱、傍若無人にふるまう外国人観光客などのマイナス要因に行き当たる。そこまでカネを使って出掛けたのに、出会うのはありがたくないものなのだ。

つまり、「有名」とは反面「貧困さ」に通じているのである。有名人だってそうである。どこへ行くにも人々の視線が気になるし、下手な店で買い物をすることもできない。マスクやサングラスをかけないと雑踏に出られなかったりする。プライバシーの点では、有名であることは、貧しいことなのだ。

逆に「無名」な場所や人には、そういうネガティブな要因は少ない。いつ行っても空いていて、何かするのにいちいち並ばなければならないということがないし、道路も歩道も余裕がある。無名な人は他人の目を気にする必要があまりない。少なくとも顔を隠す必要はないのだ。犯罪的行為などに及ばない限りは。

それでも、そういう混雑や憂き目に会うのだということが半ば分かっていても、人は有名な観光地に行きたがる。なぜなのか。

それはおそらく、皆と同じような旅がしたい、人がやることを自分もやりたい、人と同じ生き方がしたいと多くの人が思っているからなのだ。もちろんはっきりと意識化されていない場合が多いだろうが、本心はそうなのである。そして口では異口同音に「個性的な旅がしたい」と言う。嘘である。

無名な場所を巡る旅には、どこそこへ行って来たと自慢できるような要素は少ない。そういうことでマウントを取ることはできない。豊かさを得るとはそのようなことではないからだ。

有名な場所に豊かさを求めて出掛けていった挙句、正反対のものに出会うのは皮肉であるが、この世はそうしたからくりから出来上がっているようでもある。しかしそこから逃れるのは簡単なことである。無名な場所を目的地にすればいいのだ。無名な道を経路とすればいいのだ。

しかし無名なものの価値を見いだすことは楽ではない。そこにはそれなりの感受性や見識が求められる。でもやってみる価値はある。そうすれば、人と同じ生き方をしなくても済む。単純なことだが、それが自分の人生を生きるということなのだ。

ネットなどにあふれかえっている「美しい古都」の情報は、情報に過ぎない。そこに引き寄せられると、誰かのビジョンの中に生きることになる。世の中の多数の罠はそういう構造をしている。

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白鳥和也/自転車文学研究室
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