見出し画像

野田知佑著『北極海へ』を読んだ

野田知佑氏の『北極海へ KAYAK SOLO TO THE ARCTIC』を読んだ。タイトルの通り、この本はカナダ北西部を北極海に向かって流れるマッケンジー川の川下り旅行記である。

のっけからヤバイ状況がポンポンと出てきて、それが軽妙な文体でザックザック切り落とされるような感じで描写されてゆく。読んでて息つく暇もない感じだ。

目がつぶれかねないほど群がる蚊。そこいらにうろついている熊。毎晩のように雄叫びを聞かせる狼。うんざりするような危険で単調な「自然」がここでは当たり前なのだ。

ルアーを投げれば1投ごとに大物が釣れるので、釣りも面白くもなんともない。食料調達のためにだけ竿を振っている感じだ。キャンプも蚊や野生動物との闘いである。

そんな川相の中、何百キロに一つというような感じで人口数百人の集落が点在している。多くはインディアンたちで、あとは白人たち。

この極北の地ではほかに愉しみがないのであろう、男たちのほとんどが飲んだくれである。そういう人たちとの交流がまた物凄く濃い。

見ず知らずの人間に会ったと思えば、次の瞬間には一緒に飲んだりメシを食っている感じなのだ。人口密度の過激なまでの薄さが、人間と人間の関係も変えている。

気が付くと、川旅の描写よりも、出会ったインディアンや白人たちの描写が多いのではないかと思わされる。それがまたいい。川はどこまでも広大で、カヤックの上で寝たり読書したりするくらいの規模で流れている。

だから焦点になるのは、結局のところ人間なのだ。この極北の地で、インディアンや白人がどのように生きてゆくかが(そしてどのように死んでゆくかが)この本には、旅人の視線で克明に描かれている。

それでも、野田氏はこれが「冒険だ」とは少しも言っていない。「遊び」だと言っている。私に言わせると、「旅」である。

川岸で見かけた多くのキャンプとも野田氏は交流を持つ。一週間人間に会っていないようなことがざらにある旅だ。そういう中で出会った人間は、どれくらい一人一人が重いことか。

植村直己氏が使っていたニコノス(ニコンの防水カメラ)が出てくるのが、何かひどく現実的な手触り感がある。著者はこれが冒険であることは否定しているが、過酷さはそれに匹敵する。ニコノスはまるで野生の正反対にある日本の工業技術を象徴するようなもののように私には感じられた。

野田氏はこの本の中で出会った人々の幾人かと特別な交流を続けたらしく、巻末ではそういうことにもふれている。

人間がどこまで酷薄な自然の中で生きられるかということともに、そういう世界で成り立っている生活のどこか宇宙的な孤独感を、この本はある種不思議な筆致で描いている。まるで、地球という異星の極北の地に降り立った人々の物語のように。




ご支援ありがとうございます。今後とも、よろしくお願い申し上げます。