100匹目のクマ
このところ毎日のようにクマの出没記事が報道されている。単に見かけたというだけならまだいいが、一部はヒトを襲うなどの攻撃的な行動に出ている。しかもそれが全国で同時多発的なのだ。
かつてはヒトを襲うクマと言えば、多くが北海道のヒグマであり、本州のツキノワグマはよほどのことがない限り、通常そういう行動には出ないとされていたが、秋田県などで人身被害が多発していることもあり、もはやそういう常識は通用しなくなってきている。おしなべて、クマは危険な存在になっているのだ。
それもここ一、二年のことで、特に今年になってからがひどい。出没情報もどんどん増えている。ヒトの目につくところにまで出てくるクマが増えたことを意味している。ヒトを恐れなくなってきているのだ。
情報によれば、本州の某県にあったヒグマの牧場から逃げ出したヒグマが本州のツキノワグマと交配し、ヒグマの遺伝子を持ったツキノワグマが一帯に増えたからではないかという見方もある。クマの被害に遭って亡くなったヒトの遺体を運び出そうとしていた警察官らが襲われて大けがをしたという事例もあった。たいへん残忍なことだが、亡くなったヒトはクマにとって食物とみなされていたために、その遺体を保全しようとしていた警察官らが、餌を横取りする存在のように見なされた可能性が高い。これは、かつて北海道であった凄惨な大学生殺傷事件を思わせる行動でもある。それはヒグマの習性であったはずであった。
しかし現在では本州のツキノワグマもヒグマと同じような、餌への強い執着を見せるような行動を見せている。これはいったいどういうことなのか。本州某県のハンターによれば、そういうクマは捕獲するか射殺するかしないと、その遺伝子を次の世代に渡してしまうと述べている。
私の見方では、それはDNAの問題というより、ヒグマ、ツキノワグマを問わず、日本のクマ全体に起こっている爆発的で不可逆的な進化の現実という気がする。ことはすでに急激に起こりかけているのだ。
1980年代によく読まれたニューサイエンス系の名著に、ライアル・ワトソンの『生命潮流』(原題はLifetide)という著作がある。この本の中では、生命全体があるクリティカルポイントに達すると、爆発的、指数関数的に、種全体の行動様式が変わる可能性があることが示されていた。
あるところに芋を手で洗うサルのグループが出現する。仲間がそうするのを見て学習したサルも増え、やがてグループは100匹を超える。すると、まったく別のところで、そのグループと接触したことのないサルたちも突然芋を手で洗うようになるのである。※そういう事例が紹介されていた。
※『生命潮流』のこの部分に関しては、作り話であるとする見方が現在では定説になっているようだ。
あまり考えたくないことではあるが、この理論がもし現実的であるとするなら、ヒトは怖くない、ヒトは餌を持っている、ヒトは餌になるということに気付いたクマが一定数に達したときに、クマ全体がそういう世界観を身に付けて、それに従った行動をとるようになるということである。
自然のバランスは明らかに今巨大な変化の時期を迎えているようだ。「100匹目のクマ」が本当に現れたなら、当該の個体を駆除するだけでは問題の根本的解決にはならない。クマ全体がヒトを生きるために必要な食物と言う風に捉えるようになる可能性がある。
いま山里と呼ばれているようなところには、将来ヒトが住めなくなるようになるのかもしれない。クマにとってヒトは狩りの対象になるのかもしれないのだ。肉の味を覚えたことも、「100匹目のクマ」の理論に従えば、クマ全体に波及するようになってもおかしくない。
これまでは、熊鈴などを鳴らしたり、ラジオを鳴らしたりすればクマのほうでヒトから離れていくという見方が大勢を占めていた。しかし今はどうもそういうことではなくなってきているらしい。クマの被害者を助けるために何度も発砲して威嚇してもそれを恐れないクマが、すでに出現しているのだ。
困ったことなのだ。これでは、おちおち山里へサイクリングに出掛けることもできない。画像の山里にもクマの出没情報がある。
もしかしたら、生態系全体が巨大な変化の時節に突入しているのかもしれない。だとしたら、ヒトを襲うクマの存在も、ほんの予兆に過ぎないのかもしれないのだ。