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『天人五衰』三島由紀夫

書架の中に探していたもう一冊が出てきた。三島由紀夫の遺作、『天人五衰』だ。1979年の10月に買ったことが記されており、文庫版としては1978年の第三刷ということになっているから、けっこう古い。

三島のこの作品に関しては研究者や碩学の方々が多く述べているので、いまさら私などが付け加えることもないのであるが、物語の前半で多く登場する旧清水市(現在は静岡市清水区)の信号所や周辺の事物や風景に関しては、たまたま私も少年時代から親しみのあるものだったので、少しここに記してみたい。

まず信号所に関しては、三島の正確かつ精密な描写の通りで、三保半島のほぼ付け根にある駒越という地の外海側に面している。高台にあり、内海側の港の風景も望むことができる。富士山は内海側のほうに見える。

三島が取材した1970年頃には、内海側の建物も今よりは少なく、清水港の風景はもう少し詳細に望めたであろう。当時はまだ通じていた国鉄清水港線の線路を行く列車も見えたかもしれない。

外海側の風景はあまり変わっていない。防波堤の内側に新たなバイパスができて車やトラックが行き来するのが見えるようになったのは、ここ10年くらいのことだ。信号所から見える船の位置に見当をつけるための高圧線の鉄塔も、より高いものになって配置が変わった。

しかし信号所の基底から見える海側の風景は多くが往時のままだ。新しい民家も建っていないし、商業施設なども加わってはいない。

もっとも、信号所自体はだいぶ前に取り壊された。1980年代の半ばにはもう無かったように記憶している。木造で、老朽化していたのであろう。それに代わる建物が、高台からもっと下ったところにある外海の堤防に際に建てられた。これも二階建てだったはずである。

しかしこの信号所も10年かそれくらいでやはり取り壊されてしまい、信号所の機能は港の中の興津埠頭のあたりにある建物に移管されたらしい。

三島は何回かにわたって当時の清水市を訪れていたのだが、現在でいう南幹線などの大通りの描写も精緻を極めているので、清水に住んだことのある人なら読んでみるとまた別の感興を抱くであろう。その部分を下記に引用してみる。

「静岡鉄道桜橋駅のほうへゆく道は、かつてはいちめんの田圃であったのを埋め立てて、分譲地に仕立てた明るい平坦地に、新らしい無趣味な商店を道ぞいに散在させた、アメリカの田舎町のようなひろいバス通りである。バスを下りて左折して、小川を渡ると、そこに透の住んでいる二階建のアパートがあった」

最初に読んだときに舌を巻いたのは、この作品での主要人物、安永透の本籍地や現住所の設定である。それによると、透は「清水市船原町二ノ一〇 明和荘」に住んでいることになっている。

実は「船原町」という地名は存在しない。しかし、「船原」という地名は実在する。このあたり、虚構と現実のぎりぎりの線で描いているところなど、感に堪えない。今でこそ、ストリートビューやそのほかのネットの情報体系を使って調査することは容易だが、1970年当時はかなり骨の折れる地道な取材を行ったはずである。

三島がああいう終わり方をしなかったら、ノーベル文学賞をとっていた可能性が高く、もしそうだったとすれば、現在の信号所の跡地も案内看板一つということではなかっただろうが、それを言っても仕方がない。

三島が当時取材をした信号所は、私の通っていた小学校の三階からも見えた。この巨大な文豪が、自分のいたところの半径1km以内の地点を訪れていたということに、今でも不思議な感慨を覚える。

文庫版の初版は1977年だが、これは1978年の三刷。


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