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読書についての異論

60歳を超えてみると、「将来」というような言葉にどうにも居心地の悪さを感じるようになる。

ハッキリしている「将来」とは、死なのだ。それは避けられない。

そうではない「将来」を想定したとしても、それはそれほど長く続くものではない。

しかしもし「死後の意識生活」が存在するとしたら、より大きな「将来」はそこなのだ。

ルドルフ・シュタイナーのような霊学的な見方では、もちろん「死後の意識生活」は存続する。

が、そこでは、死後の世界では、生前とまったく違うその世界に関して学ぶための書物というものが存在しないらしい。

アメリカについてまったく予備知識のない人がアメリカに移住しなければならなくなったら困るように、多くの死者の意識生活ではそのことが問題となるらしい。

ところが、あの世では「何かを学ぶために本は読めない」そうなのである。

アメリカのような異世界に行った時点で、そこについてのガイドブックを入手するのは不可能だとしたら、ずいぶんと不便なことになる。

あの世で読める本は、生きている人間の精神生活、つまりわれわれ生者の内面生活、もしくは、生者が死者に朗読することそのものであるらしい。死者にとって生者は、書物のような存在だということである。

この見方には驚くべき要素がつまっているが、それはともかく、そういうこともあって、私は最近、過去に読んだり買ったりした霊学の本を朗読で読み返す作業をするようになった。

大切な友人の死も強い動機になっている。

私がいずれ死者の仲間入りをしても、私には子供がいないので、私のために霊学の本や経典を読んでくれるような人はいない。もっとも子供がいたところで、その種のものを朗読してくれなければ同じことなのだが。

「将来に備えよ」と人は始終言われ続けるが、私にできるそれは、上記のようなことである。

これまでは、本を書こうとすることにある意味必死になってきたが、これからは読むことに一層の努力を払わねばならぬ。

60代前半の人間が平均寿命まで生きたとしても、あと20年足らずしかない。

人間が次に生まれ変わるまで霊界に滞在する期間は1000年あまりらしいから、そっちのほうがずっと長いのである。

しかしその意味で「将来に備える人」はわずかしかいない。

これは不思議なことなのかもしれない。

死後にも意識が存続するとしたら、そこから先は新しい旅になるはずだから、これから移行する世界がどのようなものか、前もって調べておく必要がある、と自分は考える。

もちろんそれを人に押し付けるつもりは毛頭ない。現世をどう生きるかは個人の自由だからである。

ここ二カ月近く、ルドルフ・シュタイナーの本を中心に、朗読による読書作業をほぼ毎日続けてきたが、朗読というものは黙読とはだいぶ違うものだということがあらためて分かった。

すでに述べたように別に推奨するような気はないが、故人が気になるような人は、シュタイナーが言うように、霊的な書物や聖典や経典を小さな声で朗読してあげるといいかもしれない。それは死者のためでもあり、将来の自分のためでもある。よく言われることだが、死者は彼や彼女が生きていたときよりも、身近に感じられることが多い。私にはそれが錯覚のようにはどうしても思えないのだ。

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白鳥和也/自転車文学研究室
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