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名士の葬儀(掌編小説)
伯母が亡くなったのは、長く患っていた糖尿病の合併症からだった。亡くなる二十年も前から伯母はその合併症で目を悪くしていて、晩年はほとんど視力がなかったようだった。
私はその頃はまだ健在だった父と、父の世話をしていた母とともに伯母の葬儀に隣街に出向いた。
しばらく前から私は葬儀に出ると、だいたいは火葬が始まってからだが、故人の姿が脳裏に現れて、川や橋を渡ったり、さきに亡くなっている近親者に出会うような光景を見るようになっていた。
多くの場合、死者は無言だった。無言で光の方に向かって迎えに来た親族と歩いたり、黙って渡し船の客になっていたりした。
しかし伯母の場合は違っていた。伯母はその姿よりもむしろ声で私の脳裏に現出した。
「見えるよ、見えるよ」と伯母ははっきりと言った。
火葬でかつて自分のものであった肉体が灰に帰すとき、失われた肉体の眼の代わりに魂は新しい眼を手に入れるのだろう、と自分は思った。病というのは此岸での出来事なのであって、彼岸ではそうではないのだろう。
伯母の葬儀に出向いた人々は、控えめに言ってもかなりの数だった。夫である伯父は小学校長などを歴任し、地元の名士だったからである。
それから数年ののち、伯父も亡くなった。本人が名士である伯父が亡くなったからには、伯母が亡くなったときよりも、さらに多くの弔問客が葬儀に参列するであろうと私は考えていた。
実際にはそうではなかった。伯父の弔いの客は、伯母の弔いの客よりも少なかった。なぜだろうと私は考えたが、思い当たる節はあった。伯母が亡くなったときには、名士たる伯父の手前、参列しないわけにはいかなかった人々が、いざ伯父が亡くなったときには、不義理を見とがめる本人がいないので、都合をつけなかっただけなのであろう。
そう考えると、世間というものの実態が知れる気がした。葬儀に出るのも相手の顔色を窺いながらのことなのだ。
しかし当の伯父と伯母の夫婦は、向こう側の世界で大きな川のほとりで仲良く散歩をしているように私には見えた。どうやら、それは、この世の世知辛さとは無関係のようでもあり、私はそのことにちょっと、ほっとした。
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