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真夜中の自転車 #006/自転車の進化を問う

時代の思潮は、その時代の内側からは分かりづらいものだ。
近代という産業資本主義の時代の中では、通貨を獲得するために労働することも、多くの人が自宅とは違う場所で就労していることも、小学校から大学までの教育において産業構造に適応しやすい人間を形成していることも、ほとんどの人は疑問に思っていない。
魚類が水というものを、われわれが空気というものを、それぞれ日常的に強く意識していないのと同様、時代というものの持つ本質は意識化することが難しい。
そのように、現在の自転車カルチャーをわれわれは当たり前のことのように思っているわけだが、もし仮にタイムラインの外側に立つことができるなら、それはまた違った様相で見えてくるのかもしれない。

私が趣味や道楽で自転車に乗り始めた1970年代後半から現在に至るまで、自転車パーツの中で常に人々の高い関心を集め続けてきたのは、駆動系の変速装置である。
1970年代の後半は、ランドナーもロードもリアは5速か6速であった。それがいつのまにか7段くらいになり、インデックスシステムになり、MTBの台頭と軌を一にするように駆動系が強化され、同時に手元変速という考え方と機材が普及し、シフターのほうがディレーラー本体よりも高価になるという部品体系の変化が起こった。
その後もリアの多段化は進み、8速、9速という段階をあれよあれよという間に通り越して、とうとう二桁の10速となり、今では11速を超えて、とうとう12速まで出現した。1970年代に比較すると単純に言って倍である。

なんでそこまで多段化やディレーラー、シフターを中心とした変速システムの刷新に市場が躍起になっているかは、そもそも自転車が、内燃機関や電動機よりも明らかに出力が劣るとともに、出力の変動が激しい人間を動力としているからに他ならない。
人間の小さな出力でできるだけ効率良く自転車を走行させるには、よりきめ細かく変速が可能で、また変速の随意性や応答性がより高いシステムが求められており、だからこそ電動変速システムまで登場した。
しかしそれが、多段化を中心とした変速システムの改善や改良が、より長いスパンで考えた自転車の進化にとって、本当に第一義的に重要なことかどうかは疑問でもある。
確かに多段化された駆動系は無用の長物というわけではない。私の場合は、フロント3速×リア5速でも、最低のギア比が1:1になるのなら、ふつうの道路上でのツーリングでは特段困ることはないのだが、多段化でより低いギアやきめ細かなシフトに対応できるなら、それはそれでありがたい。
が、それが自転車という乗り物自体の本質的な進歩や進化に直結しているかどうかという点からは、ややずれているように感じられてならないのである。
もちろん変速システム自体も、歯車から別の歯車へとチェーンを脱線させて変速するという基本的構造自体は少しも変化していない。

現在はほぼ消滅した、オーディナリーもしくはペニー・ファージングとも呼ばれていた前輪が極端に大きないわゆるダルマ型の自転車から、前後輪の大きさが同一もしくはほぼ同一になったセーフティ型の自転車へと、19世紀後半に自転車の基本的な構造が大変化を起したことはよく知られている。
オーディナリー型は前輪駆動であり、変速装置を持たぬゆえ、高速化のために危険極まりないほどまで前輪を巨大化して乗降が困難になるばかりか、制動によって乗員が高所から前方に叩き付けられる可能性が高くなるなど、乗り物としては重大な欠点を抱えていた。
これに対し、セーフティ型はチェーンによって後輪を駆動する基本構造となって、前輪と後輪の径をほぼ同一にすることができ、乗員の位置も二つの車輪の間というより常識的で安全なところに移すことができた。
誰が見ても、セーフティ型の構造は分かりやすいし、合理的でより安全なことは理解できる。
また、チェーンを駆動系に取り込んで、車軸と異なる位置に動力の入力軸を設定可能としたことも大きく評価されて然るべきことではあるが、しかし自転車の本質的な進歩には、もう一点別の要素があった。

フリーホイール機構なのだ。
フリーホイール(ワンウェイクラッチ)によって、セーフティ型の自転車は初めて今日の自転車と同等の操縦特性や快適性、随意性を確保できたとも言える。
フリーホイールを使用していないフィクスド・ギアの自転車に一度でも乗ってみれば(公道で乗ることは決して推奨しないし、空地のような場所で乗っても危険であることは記しておく)、それがいわゆるピストバイク同様に、どれほど扱いにくいものであるかは容易にわかる。
われわれは最初からフリーホイールのついた自転車に乗っているので、その恩恵を意識したことはほとんどないはずであるが、自転車が徒歩などに比べてはるかに楽なことの重要な理由のひとつはフリーホイールに負っているのである。
フリーホイールがあることによって、われわれは走行中に自在にペダリングを止めることができる。足を止めても、車輪の回転が保たれている限り、自転車は進んでゆく。下り坂になったら、ペダリングする必要もない。
そして、ペダリングしなくても進むというのは、その間、身体を休ませられるということだ。

また、人間特有の出力変動に対しても、フリーホイールがあることによって、ギクシャクとした反動トルクを受けることがなくなる。フリーホイールのないピストバイクは、車輪の回転よりもペダリングが遅くなりかかると、非常におかしな動きになり、また危険要素も増える。
さらに重要な要素として、フリーホイールがないとペダルに載せた足の回転運動を止めることができないので、急ブレーキをかける場合の、手以外の基本的な動作として、ペダリングを停め、サドル後方にお尻を移動して自転車全体のバランスをとるという姿勢をとることができない。
たとえ前後ブレーキ装置がついていたとしても、フリーホイールのないピストバイクに公道上で乗るのが危険なのは、急制動の際に必ず必要となる姿勢がとれないからなのである。

フリーホイールの発明自体は1900年頃のようだが、これが広範に普及するようになったのは1930年以降であったらしい。ほとんど誰も使ったことのないデバイスであったので、その意味や優位性がわからなかったのである。おそらく、今日のような制動姿勢に関するノウハウも確立していなかったのであろう。
現在では、説明すればフリーホイールの重要性を理解できない人はいないはずであるのに、自転車の歴史を概説するときに必ずフリーホイールが言及されているとは限らないのである。
発明から普及まで30年もかかったということの原因は、一体なんであったのか、そこを考えてみるのも、ひとつの思考実験である。

そういう具合であるから、脱線式変速システムの多段化が、自転車のブレイクスルーの歴史の中で、100年後も本当にそう語られるかどうかは疑問と思ったほうが良いのかもしれない。
個人的には、近年の自転車に関するもっとも重要な発明は、車輪の分野において行われたと思っているが、そのことについてはまた別の稿で書かせてもらうつもりだ。

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白鳥和也/自転車文学研究室
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