かぐや姫の世界観と重なる教育の現状 〜well-beingってなんだろう〜
先日、妻が「ジブリのかぐや姫みたい」っていうものだから、TSUTAYAで借りてきたんです(写真は生成AIがつくってくれました)。
僕は子どもと一緒にプールに入ったり、料理したりしながら、読書したりしながらなんとなく見てたんですけど、なんかおじいちゃんとかぐや姫の関係ってなんかひどくモヤモヤするなぁと思って途中から内容が気になっちゃって…。
おじいちゃんとかぐや姫の構図って、学校の先生と子どもに似てるなぁって(批判もあるかもしれませんが…。)。
01 あらすじ (おじいちゃんの幸せ観の押し付け)
おじいちゃんは、かぐや姫にとって幸せと思ったことをどんどん進めていきます。ここでいうおじいちゃんが思う幸せとは、あくまでおじいちゃんの思う幸せの形なのです。
かぐや姫はそのようなおじいちゃんの言う幸せに向かう行動に常に抵抗します。
しかし、かぐや姫はお歯黒をぬり、眉毛を抜き、おじいちゃんの価値観に合わせて少しずつ従属するようになっていきます。本心は変わらず、解放されたいと願いながら。
そのうち帝に一緒になろうと誘われるわけですが、ここでも帝の幸せ観の押し付けが発生します。「わらわと一緒になることがそなたの幸せと信じている。」と…。
そして、このことをきっかけにしてかぐや姫は月に助けを求めてしまう。本当は月に帰りたくないのに…。
そして十五夜の日、かぐや姫を月の民?たちが迎えにきます。
月は悩みのない世界だと。羽衣を着た途端に苦悩を忘れることができるというのです。これもまた、一つの幸せ観ですね。苦悩のない世界は幸せと言えるのでしょうか。
かぐや姫は、自分にとっての幸せを悟るのですが、時すでに遅し。かぐや姫は全てを忘れて月に帰ってしまう。
02 幸せってなんだろう〜well-beingは関係の中で〜
おじいちゃんは、自分の不安をかぐや姫に乗せてしまっているように思います。
おそらく、おじいちゃんには生きてきた中で劣等感を抱くことがあったのでしょう。だからこそ、かぐや姫にはそのようになってほしくないという思いがあったのだと思います。
幸せについて考えるとき、人それぞれその形は違うでしょう。OECDでもwell-beingと言われていますが、その形を探究していくのが大切なのだと思います。
その幸せの形は、おそらく、個人の幸せとしては語れず、関係性の中での幸せの探究となるはずです。例えば、かぐや姫の物語でも、おじいちゃんの幸せは、かぐや姫を不幸にします。かぐや姫のみの幸せを考えると、おじいちゃんは幸せになれないのです。
03 おばあちゃんの寄り添い。そして、男性優位の世界観の中でそこから抜け出そうとするエージェンシーの発揮
ここでおばあちゃんの話を少し。
おばあちゃんはそんな二人を見ながらも、どちらにも寄り添うスタンスをとっています。しかし、おじいちゃんの行動を見るに見かねて、意見を伝えようとするのですが、おじいちゃんはそれを一蹴。これも男性が優位の世界観ですので…。そんな、男性優位の世界観に抵抗し、おじいちゃんに物申そうとすること、かぐや姫に常に寄り添うこと、そんなおばあちゃんの姿に、これからの教育・教員のあり方が見える気がするんです。つまり、おかしいと思ったことについて、社会が良いとしていることについて抵抗しようとする姿に、エージェンシーの発露を感じるんです。【ここでのエージェンシー概念の解釈は、これまで社会や既存の価値観に従属していた人が、初めてその構造を断絶して新たな主体となる(なろうとする)こと。】
これからの社会や学校において、既存の価値観に対してダウトをかけていこうとすることは、最も必要なことではないでしょうか。
おばあちゃんのかぐや姫に寄り添う姿は、今後の教育を支える教員に最も重要な姿だと思うのです。教員はついついできていないことに目を向け、その穴を埋めようと声をかけます。そうではなく、目の前の子どものありのままを享けとめ、思いに寄り添い、一緒にどうしていこうかを考える。そんな姿です。
フィクションであり、アニメであるわけですが、色々と考えさせられるなと思いました。
皆さんはどのように考えますか?
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