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そもそも「学習」ってなんのこと?  570

冬らしい冷たい朝。

窓を開け、布団を片付けながらふと本棚に目がいく。
鮮やかな色のせいか「自分とか、ないから。教養としての東洋哲学」と眼が合う。
「あ、まだ最後の2章読んでないや…」なんて思い出す。

自動思考で「って、こういう本、結構(本棚に)並んでるよねー」なんて思いながらシーツを外していく。

「んふふ…」思わずひとり、含み笑いが出る。
こうやって「学ぶ本」を買うけどさ…
わたし「学習」の数字「0」なんだよね…
なんて考えながら、また「ぬはは…」と笑いが出る。

この「学習0」は、いつだったか生年月日を入れるだけでザックリ自分の星を出してくれる四柱推命だったかのアプリではじき出したもの。
他には「活動」みたいな要素が4つほどあったと思うし、結構偏りのある数字が並んでいたように記憶していたんだけど…「学習0」のパンチの強さで、その辺のことは記憶からほぼ吹っ飛んでいる。


で、自虐でもなく「学習」という意味では、自分は活かせてないことが多いよなぁ…っていうのはいつも思うんだけど…。
そもそもわたしは「学習」ってなんだと思ってるんだっけ?なんて思ったのだ。


ちなみにWikipediaだと

学習(がくしゅう)とは、知識行動スキル(能力)、価値観選考(好き嫌い)を、新しく獲得したり、修正したりすることである[2]生理学心理学においては、経験によって動物(人間を含め)の行動が変容することを指す。繰り返し行う学習を練習(れんしゅう)という。又は一度行った学習をもういちど学習することを、復習という。先延ばしは、学習において克服すべき最大の問題である[3]

Wikipedia

なんて、しっかり書いてくれている。

なるほど…「学習」って「学ぶ」(←わたしの思ってる「学ぶ」)だけじゃないんだわ…ちゃんと説明してくれてるんだわ…と改めて情報が至れり尽くせりで転がっていることを知ることができたのだけども…

これを見ていると、今までのわたしの思っていた「学習」は「知識」だけだったのでは?ってことがハッキリしてくる。
もっと言えば、「行動」や「スキル」「価値観」「選考・好き嫌い」が「学習」と横一列で繋がっていなかった。
全く別件だと思っていた。


占いに迎合されるわけでもないけど、確かに「学習0」には心あたりがあって。
新しいことを知ってすぐに形にできる人を見るたびに「どうして自分はスルッとできないのか」なんて思うのだけど、それは「理解できてないから」なんて思っていた。

でも、そういうことが続いたり、実際色々な別のことを点検してみると「理解できてやる(理解できたからできる)」のか「理解できてないけどやる」のか、どっちでもアリなのでは?もっというと「そんなの関係ないんじゃ…」って思うのだ…というか、そう見えるのだ。
実際、理解できてるとか関係なくやらなきゃならないことで世界は溢れてたりするじゃないか…。


今、自分がやれていること全てに「初めて」のときがあった。
で、大体のことが「下手」スタートだった。
そして、結構な割合で「下手スタート」なことが多いわたし。

でも…やってたら出来るようになってることもまた多いんだよね。
そのスピードはさておき…。
なんなら「学習」はその「スタート」にすら立ててない場所のことなのでは…なんて感じるほどに。


そんなことから、実際自分の「学習0」は当たっていると思っていて。
「知識」をたくさん持つこと、それをスマートに活かすってことはおそらく本当に「0」だと思う。
なんていうか…センスないって思う。
だけど、その知識という「道具」をわからんなりに「あーか?」「こーか?」とトライアンドエラーするなら「まかせとけっ!」って思う。
正攻法とかお手本みたいなことには全くかすりもしないけど、楽しくはあれると思ってる。


きっと今までのわたしは「知識」を持って「…で、どうするん?」って思ってたんだと思う。
「学習」って「道具」を渡されて終わると思ってなかったんだと思う。

でも、言ってみたら「学習」をうたっているところは「道具」を渡すだけのところがほぼほぼかもしれない。
そんなこと、事前にインフォメーションないけどさ。
「塾」なんて名前なら「練習」も入れてくれて、ちょっと良心的かもしれない…。

そう思うと「お稽古」ってよく出来てるシステムかも…なんて今更思ったりして…。


わたしは「知識」を持っただけなら「0」だけど、それを「道具」にするならどこまでいけるんだ?「0」からいくつまで動かせるんだろう…なんて考え始めると、それはそれでおもしろく感じられてくる。

まさに「0」からのスタートじゃないの…なーんて。
今年の目標(今年からの?)にどうやって組み込もうかと楽しくなった一日だったのでした。





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