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好きな人とごはんを食べられること

それがどれだけ難しいことで、どれだけ変えがたい幸福か。



3連休もあってか、人と食事をする機会が増えた。朝ふらっとモーニングをしにパン屋さんに行って、その場でパンを選んで食べる。19時半からカフェでごはん会をして、21時ごろに〆の炭水化物まで食べる。家に帰ってお酒を飲みながら夜更かしをする。



私にとってはどれもが特別で、こんなことができる今の自分を誇らしく思いたいとすら感じる。うん、誇らしく思っていいと思う。



誰といても、相手との会話よりも目の前のごはんのことで頭がいっぱいだった。それが当たり前で、人と食事に行くということは「気を張る大イベント」なのである。もちろん人に会えるという意味ではなく、自分の食生活の中のイレギュラーとしての大イベント。



決まった時間に決まったものを食べていたい。外食なら事前にメニューとカロリーを調べてシミレーションしいていたい。自分より相手に多く食べてほしい。それを計算しながら取り皿にごはんを分けて、相手の食べる姿を観察する。



これだけ食行動に制限があるのに「私、7時半に朝ごはん食べたいんだよね」「米食べられるんだけど麺類食べれないんだよね」みたいなことを、人に言えなかった。自分の勝手すぎる食ルールを他人に押し付けることなんてできない。だから自分の頭の中で反芻して、相手との会話が聞こえなくなる。ただ、目の前の食べ物との戦いになってしまう。



きっと、私が今自由に好きな人とごはんを食べられるのは、「不自由さを共有している安心」が大きな救いになっているのだと思う。



確かにパン屋さんでカロリーの分からないパンを二つも頼めるようになるとか、友達の予定に合わせて遅い時間にごはん会を始められるとか、楽しくなって家に帰ってお酒とシフォンケーキを食べるとか、大きく行動が変わっている。でもそれは、目の前の人への信頼が原動力になってできることでもある。なんかね、自分の食ルールより相手との時間を大切にしたいと思えるんだよ。



そう思わせてくれるのは、やはり相手に自分の不自由さを共有しているからだと思う。パン屋には行けても時間は自分の思う時間に行きたい、とか。遅いごはん会も対応できるけど食べられるメニューを伝えておく、とか。今日は特別な日だから少しだけお酒を飲みたいと宣言をする、とか。



微妙なニュアンスだけど、「食べれる、食べれない」の2つの選択肢じゃなくてグレーゾーンの中で食事をする。そうしたら好きな人とごはんが食べられる。笑える。美味しいねと言える。



それって、自分の食ルールを守るよりも、嬉しいことなんだ。



好きな人とごはんを食べていたい。それは好きな人と生きるということで、自分の世界が目の前の人とつながるということなんじゃないか。



まだまだ自分の世界から抜け出せないこともある。だけど、少しだけ自分の世界が開けている今、不自由を持ちながらも「好きな人とごはんを食べる」を諦めたくない。



竹口和香

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