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「私こんなに恵まれてるのに摂食障害なんです」という叫びに対して

ずっと分らなかった。なぜ恵まれて生きてきた私が摂食障害になったのか。


先日誕生日が来て、30歳になった。人生の半分を摂食障害とともに生きていることになる。


食べたくなくなったり、食べられなくなったり、食べないための嘘をつくようになった。16歳、夢中だった。気づいたら体重は15kg落ちていた。か細く、弱く、儚い自分が少しだけ好きになれた。ある日を境に、今度は食べることを止められなくなった。親にバレないように冷蔵庫の奥から賞味期限切れの総菜を取った。三角コーナーの生ごみを食べた。太りたくなくて吐くことを覚えた。 


ネットで検索すると、摂食障害という病名が出てきた。「普通に」食べられなくなって、もう15年が経つ。


摂食障害は幼少期の愛着形成と深く関わると本で読んだ。自分には関係ない話だと思った。


比較的裕福な家庭で育った。父は医者で母は専業主婦だった。ニュータウンの一軒家、大きな庭にはブランコやメリーゴーランドが置かれていた。お母さんはいつもそばにいてくれて、「わかちゃんは特別だよ」「自慢の娘だよ」と口癖のように言った。



小学5年生の頃に両親が大喧嘩をして、父が出ていくことになった。友達には「医者だから単身赴任なの」と言った。お母さんは料理上手で、よく友達が泊まりに来た。お母さんが焼いてくれるパンが大好きで、自慢するように友達に食べさせた。「わかちゃんの家で生まれたかった」と言われることが嬉しかった。



お母さんはお父さんの話をすると泣いたり怒ったりした。部屋から出てこなくなる日もあった。お母さんを苦しめるお父さんが嫌いだった。お母さんが楽になるように、そばにいたり、一人にしたりした。お茶を淹れたり、小さな手紙を書くこともあった。まだ小さな妹にお弁当を作った。お母さんは笑って「わかちゃんがいるから生きていける」と言った。お母さんの生きる理由でいようと思った。



私に反抗期は来なかった。家の中で居場所を探すように暴れ回る妹と、それに殴りかかる弟と、何事もなかったかのように振る舞うお母さんを眺めていた。お母さんが「大丈夫」と言えば、この家は、私は、「大丈夫」だった。私にとってこの家は少し変わっているけど、「大丈夫」だった。


ずっと、自分がなぜ食べて吐くのか分らなかった。私は虐待も育児放棄も受けていない。大切に、特別に、扱われてきた。私はお母さんの愛情を充分すぎるほど受けて育った。うまく食べられないのは、自分の甘えだと、人間としての基本的能力の欠如だと、自分を責めるしかなかった。


あれから何年も経ったが、未だに私は摂食障害の源泉を引きずっている。そして気づくのだ。



愛されて育ったことと、その愛が適切な形だったかは別物であると。


私はたしかに愛されていた。狂おしいほどに。私はお母さんの生きる意味だった。多くの母親にとって、子は生きる意味となり得るだろう。だが、私はあの家で「自力で立つこと」を覚えないまま大人になったのだ。お母さんと深く癒着したまま、自我が育つことなく年だけを重ねた。


長年私の病を聞くカウンセラーが言った。「お母さんは、あなたの自立を妨げる愛し方をしたね」と。


わかりづらいけど、わかりづらいからこそズルい暴力だと思った。私は愛されて育った。だけどその愛が私の両足を不自由にさせ、土から出ようとする自我の芽を潰した。お母さんを恨んでいない。今も究極的に愛している。でもその「愛している」すら信じられないほど、私は適切な愛というものを知らないのかもしれない。



親の言動が一致しない。情緒的な不安定さがある。親の顔色で家の雰囲気が作られる。片親の悪口を聞く。そしてその事実たちは外に明かされない。それをケアすること、そのケアという居場所こそ家族愛だと思っていた。だけどそれは、虐待という言葉は避けたとしても、柔らかな心を持つ私に大きな傷を残したのだ。


「私、摂食障害の奥に家庭環境があるっていわれるのが嫌なんです」とよく相談を受ける。その気持ち、よく分かるよ、と思う。それこそが家族という病理なのだから。


間違えないでいてほしいのが、摂食障害を家族のせいにすればいいという話ではない。親に責任を押し付けろと言っているわけでもない。


だけど、家族という小さくて全てである世界の中であなたが見てきた世界は、あなた自身に大きな影響を与えた可能性があることも頭の片隅に置いてもらえたら嬉しい。決して自分だけのせいにはしないで。弱さや意思のせいになんてしないで。


家族を不幸にしたい家族なんていない。私の父も母もその時の最善で、精一杯の愛情を注いでくれた。そして彼らにもまた未解決の愛着の問題があったのかもしれない。


冒頭に戻るが、やはり摂食障害には愛着の問題が深く絡んでいる。ストレス解消のためだけなら、何も食べて吐くなどという自傷行為は必要ないはずなのだ。


「痩せたい」、その裏には何があるのか。
「消えたい」、その裏には何があるのか。
「埋めたい」、その裏には何があるのか。


私はこれからも闘い続ける。いつか自分のことを適切に愛せるようになるまで。誰かのことを適切に愛せるようになるまで。


摂食障害は氷山の一角にすぎない。一人で自分のことを責めないでね、あなたのせいじゃないから。



喫茶店の窓際の席にて。

竹口和香

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