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私の大学生活を彩るもう一つの挑戦【第2回】

第1回ではimmi labで運営に関わっているというお話を書かせていただきました。今回は続きとして、なぜ続けているのか、なぜこんなにも私がのめり込んでいるのか、自己分析してみました。


なぜそこまで惹かれているのか。
とりあえず思いつく限り理由を列挙してみました。※番号は順位を表すものではありません

  1. immi labの考えとチームメンバーが好きすぎる

  2. 運営に深く関わるにつれて答えのないタスクも増えてきたけれどそれを考えるのが楽しいと感じている。

  3. immi labを通して移民課題解消に向けて活動することが(無意識に)自分の癒し・心の拠り所になっている。

特に最後に挙げた点は代表のみほさんが書いたこちらの記事を読んでいるときにふと頭に降りてきたことです。ここから先を書くにあたって、自分と向き合うにあたって、何度も何度も読み返してしまいました。(内容が近いわけではないですがなぜか。)
皆さんにもぜひ読んでほしいと心の底から思います。よかったら一旦読んでから戻ってきてください^^

・・・



さて、深掘りしていきたいと思います。

1. immi labの考えとチームメンバーが好きすぎる

みなさんそれぞれ個性豊かで、とにかく素敵な方々です。人生における価値観、物事の考え方、人柄、などなど尊敬しかなくて、私にとってはロールモデルのような存在です。

2. 運営に深く関わるにつれて自分で模索しながら新しく形にするみたいなタスクも増えてきたけれどそれを考えるのが改めて楽しいと感じている。

徐々にopen-endedなタスクが多くなってきましたが、かなり自由にさせていただいているので色々模索しながらやるということはやはり楽しいなと思っています。もともと、細かく指示されるのはあまり好きではないくせに自分でそこまでできる能力も持ち合わせていないし期待に応えられているのか恐怖を感じるただのワガママな人間と自覚していましたが、普通に学校に通っているだけでは出会うことのないだろう種類のタスクを徐々にやっていくうちに、割と楽しんでやっている自分がいます。ただ自己肯定感はかなり低いし完璧主義傾向があり小さなミスから一瞬でどん底に落ちるタイプなので、楽しめているのは完全にチームメンバーの優しさ・寛大さのおかげです。
また、勉強では絶対に得られないようなキャリア形成に生きてきそうな学びが数えきれないほどあって、とても刺激的です。

3. immi labを通して移民課題解消に向けて活動することが(無意識に)自分の癒し・心の拠り所になっている。

これは私が無意識的にやりたい・続けたいと思っている大きな理由なのかなと思っています。
背景には今から書く個人的な事情が深く関わっています。

では思い切って・・・・




私は先天性感音性難聴で、高校1年生の時から補聴器をつけて生活しています。
毎年小学校の検診で引っかかっては近所のクリニックに受診し、心因性と言われ続ける小学校時代を過ごし、信じられずに病院を変え、中学1年生の時にようやく診断がつきました。程度は軽度から中等度で、今でも補聴器がなくてもQOLを気にしなければ生きていけないことはないので時間がかかったのは仕方なかったのかもしれません。

補聴器を装着し始めた頃にまず思ったのは、「世の中の人、こんなに音だらけの世界で生活していたのか。」でした。それまで聞いたことのない音を脳に入れるというのは順応が必要で、小さい頃からの聴覚活用が重要と言われるのはこれが理由です。今でも慣れずに刺激が強すぎると思う時もありますが、外したら静かな世界に戻れるので、便利ではあります。というと、なんか特権利用しているみたいに聞こえますが、事実は事実なので。


「補聴器をつけてるならそれでいいじゃん。健聴者と同じだし問題ないじゃん。」

そう思うかもしれません。


でも本当は全然違う。

データ的にも、補聴器を装用した状態で聞こえている音のレベルは正常範囲すれすれ、そして音が聞こえていても言葉として聞けている(正しく変換して理解している)レベルが低い。


最近映画化で話題になった作品「ぼくが生きてる、ふたつの世界」の原作、そして同じ作者の別のエッセイ本も読みました。
「ぼくが生きてる、ふたつの世界」をここで少しとりあげます。(※少しネタバレしますしあくまでも私の解釈です🙇‍♀️)

ろうの両親の元に生まれた「ぼく」。小さな港町で家族に愛され健やかに育つが、やがて自分が世間からは「障害者の子」と見られていることに気づく。聴こえる世界と聴こえない世界。どちらからも離れて、誰も知らない場所でふつうに生きたい。逃げるように向かった東京で「ぼく」が知った、本当の幸せとは。親子の愛と葛藤を描いた感動の実話。

https://www.gentosha.co.jp/book/detail/9784344433779/
幻冬舎「ぼくが生きてる、ふたつの世界」の作品紹介より引用

確かにどちらも内容はとても良い本でしたが、どこかで羨望の眼差しを注いでいる自分がいました。
「いいな、この人は共感できるコーダ仲間に出会えているんだ。」
作品の本筋は上記の引用通りなのですが、東京で彼は「コーダ」という言葉、そして自分がそれに相当すると知り、仲間を見つけるわけなのです。


また、音のある世界・音のない世界、この二つに分けて書かれていることに対して、違和感を抱きました。

「その間に漂っている人もいるのだということを知って欲しい」と。

本では、作者がまるでその二つの世界の間を瞬間移動で行ったり来たりしながら生きてきた人生について書かれているように感じられました。

大体世界中の人みんなを属性に完全に分けることはできないしすべてグラデーションのようになっているはずなのにな・・・と感じてしまいました。

良い内容だなと思っている私となんだか疑問を感じる私が同時に存在していました。



日本の基準で障害者手帳が出ないレベルで専門的な補聴器を装用している (できている)人は少ないし、まず出会う場がないです。ただ、そういうコミュニティだけに囲まれてそこに存分に浸っていたいのかと聞かれるとそうではないな〜と思ううので、多分時々共有できるみたいな人が欲しいと本能的に感じているのだと思います。世の中、経験しないとわからないことというものはどうしてもあります。先ほどあげた本の内容を例にとると、コーダの人によってしか共有できない経験があるように。(もちろんコーダの方々もそれぞれに特有の事情があると思いますが、ある一定の共有できる点はあると思います。)

私の場合は・・・(一部言葉が強い可能性があります、苦手な方は飛ばしてください)

  • 重度難聴で完全に聞こえない方と比べたらこのレベルで障害があるっていうのはなんだか「そんなレベルで障害っていうな」とも思えるし、言えないかなって思う、けど、現実的に健聴者とも言えない

  • 風が少しでも吹いていると、補聴器特有の風切音で他の音が聞こえにくい、かといって外しても風という波が会話音の波の伝播を遮っているのでそもそも聞こえない
    強風のときは埒が開かないので少なくとも自分からは話さないし会話は適当に流します。

  • 補聴器をつけていると自分の咀嚼音が響いて食事中の会話が難しい
    視覚的に相手が話し始めたと思ったら咀嚼をやめるという工夫をしていますが、特にとても仲良い人とでなければ、ものすごく集中するので単純に疲れます。そして咀嚼を止めていると食べるスピードはかなり遅くなります。(まだあまり知らない人同士でご飯を食べて親睦を深めようみたいなシチュエーション、割とありますよね。性格もあると思いますが、待たせると申し訳ないと思ってしまうたちなので、他の人が食べるスピードと話し始めるタイミングを見計らったり頑張って早く食べたりとかなりストレスになってしまいます。)

  • 騒がしい環境での会話は補聴器をつけたとしても難しい
    周波数ごとに細かい音量の調整をしていますがやはり全体的には大きくなるので難しいです、健聴者の方は脳の学習により自然といらない音を排除しているらしいのですが、私はこの能力が多分劣っています。

  • やはりお金がかかる
    メーカーの生産事情により補聴器の定期的な買い替えは必須になってきます。
    補聴器代・電池代・清掃用品代・メンテナンス代など

・・・・

これが本題ではないのでここで止めておきます。
小さなことかもしれないけれど、生活をしているとふと気付かされるものなのです。例えば、風が吹いていて会話が続行していく時、流れで食べに行こう〜という雰囲気になる時、騒がしい環境に置かれる時、補聴器の電池や清掃用品を買う時。

理解をしてもらうために事情を説明することはできますが、「それめっちゃわかる〜」というように感情を分かち合うことは難しいです。「そこまでの必要はない、それぞれに抱えるものはあるしそれは自分でなんとかしないといけないもの」と思う気持ちもあります。でも残念ながら、ヒトは時々多少の感情を共有をしたくなるもので私もそれには抗えないようです。

日常生活を送る中でいつも心の底でなにか重しのような、モヤモヤとしたものが眠っているように感じてきました。
自分だけ、どこか取り残されているような、違う世界にいるような。


じゃあ診断がつかないまま、補聴器をつけないまま、それまでの私にとっての”普通の環境”で、健聴だと信じて生きてこれた方が何も知らなくて”幸せ”だったのか?


「いや、多分それは違う。」というのが私の今の答えです。補聴器をつけていなければ今度は「中途半端に会話についていけない」という時に感じる感情を分かち合える機会は少ないし、装用したことで少なくとも大抵のグループでの会話も神経すり減らしすぎることなく自然とできていて、QOLは多少上がったと思います。

でもやはり同じにはなれないというのは受け入れないといけない事実で、
「自分は健聴者と比べるとどうしても劣っているので、同じ社会で生きていくには(同じ競争の場でやっていくには)、”健聴者が通常運転”とされているところでやっていくには、当然人一倍工夫して頑張らないと人並みになれない、ましてや人並み以上を目指すなら尋常でない意味のある努力を重ね続けないと私には無理だ。」
という考えはやはり私の根底に存在し続けています。


「競争の場とか言って、世界を分けることに違和感を感じると言っているあなた自身が世界を分けて考えているじゃないか。」

ここまで読んでくださった方にそんなご指摘を受けそうです。

正直なところ、「確かにその通りかもしれません。」と答えざるを得ません。
でも現実問題としてそう捉えざるを得ないのは事実ではないでしょうか?今はまだ理想論ばかり言ってられない段階だなと思っています。あえて割り切って考えるようにしています。実力社会で、周りのほとんどが健聴の世界で生計を立てることになる以上、そんなことを言っていたら認められないし生きていけないような気がするんです。生まれ持ったマイナスをカバーできるくらいの何かがないとやっていけない、社会はそんなに甘くない、私は常々そう思っています。
(こうして黙っているから社会が変わらないのかもしれない・・・)



さて、immi labに惹かれている理由という論点に戻ると、immi labが日々模索して作ろうとしている「移民の声が消されない社会」は、すべての人の声が聞こえて尊重されて、変えられない何かに左右されずにみんなが気持ちよく生きていける社会だと私は思っています。そしてそれは、少なくとも私にとって、ものすごく生きやすい社会であることは間違いない、ということを直感的に、頭のどこかで感じているのだと思います。


ー移民も生きやすい社会ー
||
ー全ての人の声が尊重される社会ー
||

ー(どこかグレーな難聴者という意味で)私のようなマイノリティも生きやすい社会ー


つまり、immi labで活動することが、回り回って個人的な未来への投資にもなっていて、どこかで自分の救いになっていて、活動が強く自分ごとに感じられるのだと思います。その証拠に時差が7時間あっても、スケジュールは比較的最優先で開けて、やること山積みで焦っていてもまあ大丈夫って言ってしまうし、ほとんど変わりなく時間を割いてしまいます。「やってしまう」という言い方をしていますが、とてもとても良い意味で、です。もう生活の一部のようになってしまっているという言い方が良いでしょうか。(大学生活も自分のキャリアも同時に楽しむことは忘れないようにしています。)


なぜ別に秀でたとこもなく大したことない私をチームとして迎え入れてくれているのか実は未だに不思議で、本当に恐縮なのですが、両思いなのは嬉しいのでそのまま受け取っておくことにします。いつも本当にありがとうございます😭

先日のチームMTGで、今まで決して深くまで話してこなかった私の話を、感情を、人生で初めて少しだけ出す機会がたまたまありました。その時すでにこの記事は(当時の自分的に)完成していて、ある程度頭の整理はついていたはずなのですが、どこかでロックがかかって記事に書いていたこと全ては到底出せなかったし、その瞬間はどうしてかわからないけどとても辛かったです。向き合っていたつもりで向き合えていなかった現実で、自分を守るために心の奥にしまっていたものだったからなのだと今思います。うやむやにしてまとめていたんだなということが浮き彫りになったとも言えるでしょうか。
でも、少しだけ心が軽くなった気がしたのも事実でした。そしてこの記事のことも何度も考え直して、幾度かの再編集を経た今の記事は、もっとぼやっとしていた感情的な部分がよりメタに言語化された文章が自然と大幅に増えた気がしています。私にとってその話すという経験は思っているよりとてつもなく大きかったようで、数日経った今でも、常に閉じていた蓋が半開きになっている感じがして、まだどこか落ち着かないところもありますが、必要なことだと思えるし極小なりとも話せてよかったと思っています。これを今書きながら胸が熱くなるくらい、本当に感謝してもしきれないし、次のMTGで会った時により深く思い出して取り乱さないか少し不安なくらい一生忘れられない大切な経験になりました。



今まで聴力について言ってこなかったのは、同情されたくなかったというのが正しい言い方かわかりませんが、「ちょっとハンデのある人が留学している」みたいな目で初めから見られるのだけは本当に嫌だったからです。これからもそう見られたくはないですが、バイアスを取り除くのは非常に難しいと思うので・・・・でも本当に忘れて欲しいです。

そして、immi labのことを言ってこなかったのは、
1. 自分の中でなんとなくちゃんと説明する心の準備ができていなかったから
2. 説明するにはやっぱり個人的な事情も含め全てを話さないと伝わらないと思っていてそこを公開するのに長く抵抗感を抱いていたから
3. 留学をテーマに始めたこのアカウントで方向性がよくわからなくなってしまうのではと思ったから


でも、今後はこのシリーズでimmi labで活動していて思うこと、関連したことも書いていくと思います。
そしてimmi labのこともたくさんたくさん応援していただけると嬉しいです。



ここまでまとまりのない文章を読んでくださりありがとうございました。

そしてかなりネガティブに書いてしまったので最後に1つニュートラルなことを。
私が難聴だったことで育まれてきた、1つだけ役に立つかわからないが強みだと信じたいことがあります。それは状況を観察して何が起きそうか予測するのが得意なことです。生活する術として身について来たのだと思っています。


今後私の気持ち次第でこの記事は取り下げてしまうかもしれませんが、ご了承ください。














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wakana
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