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現実世界と地続きなSF設定の奥深さ
さまざまな知識を追いかける快楽
皆さまもそうだと思うけど、個人の知識なんてやっぱりたかが知れていて、己の無力さを感じることは多いと思うけど一方で少ない知識が方程式のように繋がることが自分でもわかるレベルで腹落ちした瞬間、パズルの問題や詰将棋の答え合わせのような快感を知ることもあると思う。
誰であったとしても達成感や爽快感などに繋がる麻薬ってあって、その麻薬から逃げるのはそう簡単ではないしむしろご褒美と思い日々生きている気がしている。それはそれで健全なんじゃないかなとも思っている。
作者の妄想と誤解されがちなSF小説
個人だとここ数日画像AIがずっと気になっているんだけど、興味はアウトプットより人によってはデザインやセンスという感性と言われて来た領域は機械にはできない的な謎の自称専門家の戯言があったけど、ほんと必要なのは無知の讒言ではなく、一つ一つの知識の集積なんだなと思う。
なんで、そんな話をしているかというと、去年からファウンデーションがドラマ化されていた話を知ったこと。
Apple TVなんでこれ以上手が出せていないのだけど、どうしても僕らの世代におけるSFやファンタジーなどの領域って、特に海外小説の翻訳の稚拙さのためあっという間に挫折したため「ああ、読みきれなかった」というものが多数あったりする。
よく昔のSFって今のような「設定だけコピーした人間ドラマ」ではなくて、ある一定の科学的根拠に基づいた未来予想を行うケースが多くて、幼少期の自分には驚きばかりの話だった。ファウンデーションシリーズもアシモフの代表作で読んでる人は当然読んでいる代物。そして自分は言葉だけと言ったレベルだ。
けど、ドラマされるなど映像コンテンツ化されると一気に敷居が下がるよなと思ってたんですよね。そして面白いことに検索するほど今の世の中、いろんなサイトからレコメンドされ「おまえ今こういうの知りたいよね」と言ってくれる。ほんとありがたい世の中。
SF設定としての心理歴史学の面白み
そこでファウンデーションシリーズの面白い設定とかをネットで教えてくれたんですよね。例えば心理歴史学とか。
膨大な数の人間集団の行動を予測する為の数学的手法。社会的、経済的な刺激への人間の感情や反応に一定の規則を見いだすことで、未来の人類の行動をも予測しうる。ファウンデーションシリーズの根幹をなす小道具である。アシモフはこのシリーズで、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』を参考にした宇宙未来史を描く事を構想したが、同時にSF的要素として、人類の未来を数学的に予測する手段を作品に導入する事を思い立ち、気体分子運動論において、個々の分子の運動は予測できないが、集団の気体ということなら平均の運動は計算できるという事のアナロジーとして、分子を人間に、気体を人間の集団に置き換える事で「心理歴史学」を考案した。
この設定ってアシモフが元々化学を専攻してるが故「人類70億だと予測は難しいが100京まで増えれば定理となり予測可能になるのでは?」という話だ。人によっては無茶苦茶だ。化学と人は違う!と憤慨する人もいるかも知れない。この辺りの話って難しい。
当然指摘にように1人1人の人は違うのは間違いない。けど、全体的な傾向を推し量る話と個人の個々の活動は共存共栄する。いい例かわからないが、例えば大きな駅の動線の予測をする際の流量を考えることと、あなたがその駅をどう使うかの傾向を考えてみるとわかりやすい。個人の好みと全体傾向は必ずしも一致するとは限らないわけだ。そして経済学者がマクロ経済学を盲信する論拠にもなっている。
でも人によっては言う「マクロ経済学とか偉そうに言っても当たらないじゃないか」と。これもその通りで、実際には言う割にぼやけているのも事実。その話のなかでこの心理歴史学が面白いのは「まだ人類の総数が少ないから予測できないのでは?じゃあ設定で総数を増やしてみる仮説を立ってれば定理化できるのでは?」という設定の妙にあると思う。
小手先に踊る人、概念と総量に拘る人
この話の面白みは「仮説立証のためには総量が高いデータを打ち込めば立証確立が上がるのでは?」ということだ。そしてそれを現実化しているのが、シミュレーション科学の世界。
つまり、あるSF設定の妄想が、現実社会の技術に転用されてそれが具体化している。欧米の識者がすごいなと思うのは、日本だとすぐに「アトムを作る、ドラえもんの道具を作る」とオブジェクトのコピーを作ろうと頑張るが、彼らがやっているのは思想や概念の転用だ。1オブジェクトのコピーはコピーするほど劣化するが概念レベルまで整理されている場合、その他の応用は容易となる。そしてその概念の土台はデータ量。この二つが両輪となりドライブしていく。
最初に触れた画像AIでも同じで二言目にはベースになる利用画像点数の話にもなるけど案外、思想や概念に話は聞こえない。もしかすると、自由に使えるオープンソース化したのも思想や概念こそが、本当の価値であるからこそあえて無償化しているのかも。無償で踊る利用者を横目に上手にコントロールしているのかも知れない。
最後に
最初に触れたいろいろな知識の自分なりの答え合わせをすると、概念を踏まえる人が偉くて、小手先に踊る人が愚かという単純な話ではなくて、こういう視座で見ている人が世の中にはいてるという事実があることを知っておくと見え方が変わるかもなと思うと同時に僕も含め如何に大多数の人は物事を近視的に見てるんだという事実。
そしてどうしても僕らは単純に簡単にというけど、それをより高確率で実現するためには、数的根拠が必要だということだ。そして、その量を捌くためのきっちりとした論拠も。
どうも自社もそうだけど、ほわっとした仮説だけで推し進めてアジャイルと称して、スクラップ&ビルドしてるケースが多すぎる。理由はいろいろあるけど、思想家や哲学など「物事の理り」をじっくり時間をかけて考える行為を軽んじているからだと感じている。
古代ローマの哲学が中世ローマで消え失せ、馬鹿になったように「なぜ?どうして?」を止めた先は、没落しかない気がしている。そういう意味で、自分なりのジタバタは不器用でも続けないとまずいよなと感じています。
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![かわむら よしひろ](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/120182736/profile_fec40be4368c70105a9661f065912abf.png?width=600&crop=1:1,smart)