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人格を形作る数多の補助線

使いやすさやわかりやすさは、マーケットの分母を増やすために必要な要素であることは間違いない。一方でわかりやすさが普通になった時、少しでも不便だと不満に転嫁され場合によってはクレームに置き換わる。

君たちはどう生きるかが公開されて1週間経ってさまざまな考察が語られているが、その中で誰かが語っていたが「監督のコメントがないとこんなに不安なんだ」「あれもこれも過去の引用を多用して解説した風になっているけど、見た感想は少ない」という声を聞いて、物事をわかりやすくする仕事をしている人がこれだけ多いのかということに気づく。

これは感覚的に理解していて一定数、Aさんの言っていることは全肯定という人もいるし、他人の評価を自分の評価して上書きして「自分の感想」と思い込んでいる人も多い。これもある意味わかりやすさの亜流で実は世の中「さまざまな補助線」により回っている証左である。

車を走らせる上できちんとレーンがある。そのレーン通りに車を運転すれば事故になる確率は格段に下がる。自分で考えないことは脳の負荷を減らし他のことに注力する時間を増やすことができる。これはホモサピエンス的、文明的な側面からすると正しい方向と言える。

君たちはどう生きるか?という哲学的な命題であったとしても、他人の補助線に頼っていくことで効率的な生き方も出来るとは思う。けど人生の場合、他人の補助線が行く先で切れていたとしても文句は言いづらい。(まあ得てして文句を言う人も多いが)

またこの補助線は先ほども言ったように自分で選んでいそうで実は他人の補助線に頼って進んでいることも多い。それは当然として生まれてから今日まで受けていたあらゆる経験、環境、人との出会いが知らぬ間に補助線として自分を形成している。

昨日、とある人との話で気づいたのだけど、自分の人格形成において形作る要素が複数あったとして、人は機械とは異なり相反する要素であったとしても共存している。例えばある部分ではすごく論理的だが、ある部分は大いに論理破綻するという事象は人間では普通にあったりする。

これは個人の意見だけど、その相反する自分の人格は、過去の数多ある補助線が複雑に絡み合い自分というものを形作っている。それは格子のように直接的ではなく、ほつれた糸のように絡まったものを想像する。それこそが自分自身ということなのだろう。そしてこういうことを真面目に考えないと僕らはこのことに無自覚だ。

面白いなと思うのは、僕もそうだし他の人もそうで、その経験値の道はさまざま。だからこそ「分かり合えた」と思っても、それは数多ある補助線の一つがたまたま一致したにすぎない。よく他人と分かり合えた、分かり合えないと議論は尽きないが、この補助線理論の場合「その人を完全に理解する」という命題はかなりの難題で、それこそ小さな世界の理を知るレベルだということに気づく。

だからとして「どうせわからない」と言いたいわけではない。世の中の理と同様に知るための道は遠いし分かり合えないということと、ある部分は分かり合えた喜びを一つずつ消し込んでいくしかない。それはジグソーパズルのピースを一つずつ埋めていくことと同じだ。一方でピースを一つ埋めただけでわかった気分になるのも違うということだ。そこには常に謙虚さも必要になってくる。

君たちはどう生きるかは、太い補助線をあえて廃することで、普段如何に甘く数多な補助線に頼って生活しているかを教えてくれたという意味でいい気づきがあったなと感じさせてくれました。

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かわむら よしひろ
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