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読書しきれなかった感想文「一九八四年」

タイトルにもあるように今回は読書しきれなかった感想文だ。
海外SFとして名高い「一九八四年」を読み始めたが、40%くらいのところで力尽きてしまった。

読みきれなかった原因は、スピード感の無さで飽きてしまったからだ。
どうやらこの症状は、私だけでなく特に漫画やYouTubeなどを見ている若者にも見られる症状のようだ。
YouTubeの動画が10分以内で終わるものの方が再生数が伸びやすいのもこの現象が関係しているだろう。
この「物語に対して極端にスピード感を求めてしまう」症状は、現代病の一つとして挙げられてもおかしくないと思っている。

話を元に戻そう。
あらすじをものすごく簡単に話す。

主人公のウィンストンは、第三次世界大戦を終えた後のディストピアに暮らしている下級役人である。
ディストピアでは、ビッグボスに常に見張られており、情報統制がなされ過去改竄も行われている。
ウィンストンは、現体制に疑問を持っており鬱屈した気分で過ごしていた。
そんなある日出会ったジュリアと愛し合うようになり、その後出会ったオブライエンから体制の裏側を知らされる。
しかし、ウィンストンとジュリアは体制側に捉えられ、拷問を受けながら現体制の思想へと強制されるのであった。

私はこのあらすじの中で、ジュリアと出会う前に心が折れてしまった。
つまりは主人公が現体制へ疑問を抱きながら日々を過ごしているところまでで終わってしまったのだ。
先に述べた症状があるのでやはり何か起きて欲しいと思ってしまうのだ。
ミステリーではないので、いきなり人が死んだり事件が起きたりはしないだろう。
また50年以上前の作品であるため、展開が遅いのも仕方がないと思っている。
ただそれでも何か起きてほしいと願ってしまうのだ。

私も純文学を読む。
割合としては読んでいる本の2〜3割は純文学なのではないかと思う。
純文学も何も起きないと言えば起きないのだが、地の文を楽しむために読んでいる。

しかし海外文学の場合、地の文を翻訳されたものを読むことになる。
そうなるとどうしても翻訳された文を読むことになるため、元から日本語の純文学を読むのと比べて見劣りしてしまう。
念のため断っておくと、翻訳家の皆さんをおとしめるつもりは全くない。
私自身が潔癖症であるため、原作そのもの=作者の書いた文、を読みたいと思ってしまうがために起きる現象だ。

海外のビジネス書も読んだりするが、それらがエッセイ調なことも含めてあまり馴染めていないと言う話を以前にした。
もしかするとそれだけでなく、翻訳文自体が好きではないのかもしれない。
もしくは英語の言い回しが慣れないため、スッと入ってこないのかもしれない。
いずれにせよ海外小説に向いていないらしい。

展開を楽しめず、地の文も楽しめないため、だんだん読む気が無くなってしまい、40%程度で挫折してしまった。
短いが40%読んだ感想として、1950年前後にすでにこの設定を想像できた作者ジョージ・オーウェルは天才だと感じた。
ビッグボスによる監視社会を想像するだけでなく、監視社会に必要な装置を作り上げ、しかもそれに対する文化も練り上げているのは天才と言わざるを得ない。
いまでこそ、そういうディストピアあるよね、のようにディストピアあるあるとして語られるが、その原典を作り上げたのはやはり天才のなせる業だろう。

名作を読みきれなかったのは残念ではあるが、私自身が海外作品に向いていないことがわかったので、前向きに考えていきたい。
今後は日本の作品に注力して読書感想文を書いていこうと思う。

若井俊頼

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若井俊頼
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