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ひとが哲学を必要とするとき
1. はじめに
ひとはなんで哲学するんだろう。大学で哲学を勉強して、会社に入っても、やっぱりに哲学に引っ張られて、ウィーンにまで来てしまった。哲学ってなんなんだろうともやもや考えたものをnoteに置いておきます。一緒にもやもやして下さい。
哲学が誰しもに必要かどうかはわからないけれど、ひとが哲学を必要とするときがある。哲学することを迫られるときがある。気づいたら哲学をしているときがある。いまはそんな感じのことを考えてる。
2. 哲学することは楽しい
最近、ウィーンで日本人の友達ができた。高校の時の友達が「私の彼氏、ウィーンに今留学してるわ!」と教えてもらって、運よく会うことができた。同い年で、建築をやっている大学院生だった。ウィーン屈指の老舗カフェ Das Caféで待ち合わせたのだけど、10時でも行列ができていて、すこし歩いて落ち着いたカフェに腰を下ろした。もうこっちに来て9ヶ月になるらしく、ウィーンの建物や通りのことを教えてもらった。
初対面でまだ1時間も話していないのに、自分がすごく安心していることに気づいた。彼は飄々と周りを見ていて、やわらかい物腰だった。こちらも気合を入れないと話を持っていかれてしまうような、そういう圧強めの人たちを語学学校で相手してきたから、逆に新鮮な感じだった。戦闘モードをじゃなくていいんだな、え、いいんだよね?と確認したくなるような。
そうか、家族から愛され、確かな教育を受けてきたんだろうな、と想像した。きっと家庭環境は似ているのだろう。他人に対して僻みや妬みがなく、社会に対する諦めもないようで、努力することを知っているひとだった。
「育ちが良いってどういうことなんだろうね?」
それは、心の中でも思ったことであったし、口をついて出た言葉でもあった。「毎年家族でハワイに行くのが当たり前」というようなリッチさを垣間見た訳じゃなくて、もっと洗練されたものを見てとった。他者へ配慮する余裕が当たり前にあること。たとえ他者に配慮したとしても、自分の取り分が減るような感覚がないくらい、すでに満たされている。だから、自分が自分が、と主張するような強引さがない。
でも不思議なことは、それはその人が「洗練されている」のではなく「育ちが良い」と形容されてしまうことだ。そもそも、「育ちが良い」という形容詞は「その人」に対する褒め言葉ではなくて、ただその人の生まれ育った環境の良さを賛辞する言葉である。俺は彼の環境のよさの話をしていたんだろうか。俺は彼の所作の洗練さの話をしたかったはずだ。
どうしてひとは、その人の態度からその人の生まれ育ちを連想するのだろう。どうして俺は、「たぶん自分と似た環境で育ってきたんだろうな」と思って安心したのだろう。どうして、安心できたのだろうと、岡山で高卒叩き上げの現場監督たちと工場で一緒に働いたことを思い出していた。中高大と付き合っていた人たちと岡山の監督たちはどこか違っていた。どう違ってたんだっけ。
そもそも、育ちが良いなと思ったとき、おれは何を言おうとしたんだっけ。
彼の育ちが良いなと思ったとき、家庭環境のことを最初から考えてた訳じゃない。一緒にいて気持ちの良いひとだなと思ったはずだ。あれ、「一緒にいて気持ちのいいひと」ってどんな人だ?なんで思いやりのあるひとだと思ったんだっけ。思いやりってなんだ。他者への配慮って?
*
哲学することは、普段使っている言葉の森にもう一度分け入って、もやもや考えてみることだと思う。知っているはずの森なのに、そこには見たことがないジャングルが鬱蒼と広がっている。あたかも、こどもに戻って世界をもう一度新しく見ているかのようである。何もかも新鮮で、あれはなに?なんでそうなの?これとこれは違うの?と無邪気に聞きたくなるような探検である。
普段、何気なく使っている言葉の裏には、凝縮された思考が渦巻いている。経験に裏打ちされた一瞬の思考をひも解いて言語化してみると、そこに人生が横たわっているのが見える。日本語の使い方ひとつに、自分がこれまで何を体験して、世界をどう見るようになったかが隠れている。
それに気づいて、おどろく。知っているはずなのに言葉にできないことがまだたくさんあることがなぜかうれしい。
3. 哲学が必要になるとき
それでも、哲学することが本当に必要か?と聞かれると、自信がない。
たとえば、ディズニーランドはとっても楽しいけれど、必要か?と聞かれるとむずかしい。ディズニーランドをこよなく愛する人にとって、かけがえのないものであることは想像に難くないとしても、皆にとって必要とまでは言えない。
哲学がほんとうに必要になるのは、ひとに危機が訪れたときであると思う。
危機、それはつまり、自分がじぶんではいられなくなったとき、自分がじぶんでいることの自然なあり方と今の自分の乖離に耐えられなくなってしまった時であると思う。自然な自分と今の自分が噛み合わないと、その噛み合わなさが限界を超えてしまうと、人は危機に陥る。まずは自然の自分、ありのままの自分がいるのか、という話から始めてみたい。
3-1. ほんとうのじぶんなんているの?
20世紀の哲学者や精神科医たちは、ありのままのじぶんなんてものはなく、自己は他者によって、そして社会の中で形作られるのだと説明してきた。インドに行ったってほんとうのじぶんが見つかるはずもなく、自分が今いる場所で他者と関わることを通して自分をつくる。
たとえば、日本の哲学者・鷲田清一は精神科医R・D・レインの文章を引用しながら、「各人にとってはじぶんがだれの他者でありえているかの感覚が、〈自己〉の同一性感情の核をなす」と解説している。たとえば、私の母は、「私の母親」であるということを長らくアイデンティティにしていたし、今もそうなのだと思う。自分が誰かの母親であり子どもを気にかけていることが、母にとって自分が自分自身であることを意味していた。ただ、ある人が母になることができるのは子を産んだときではなく、子が母を母親だと認めたときである。そのような意味で、私の母のアイデンティティに子ども、すなわち私との関係は不可欠だった。
そして、精神科医のレインと同時代を生きた、フランスの哲学者・サルトルによって社会の中でじぶんを形作ることが呼びかけられた。人間は、料理の道具になることを運命づけられたフライパンとは違う。フライパンのような定められた運命などないし、他者なくして自分はあり得ないのだから、他者に応えて社会に自らを投じて、君自身を作れ、と。そう言ってサルトルは、ナチスに占領された祖国フランスにおいて、自由を求めてレジスタンス運動に参加した。労働者に連帯して労働者の権利について批評も発表した。フランスの植民地アルジェリアの独立にも手を貸して、独立派の新聞に寄稿までしている。
*
もうひとつ、ありのままの自分なんていない、という考え方を紹介してみたい。「分人」という概念がある。
久しぶりに大学の時の友達に会って、中目黒のカフェに行って、3人でフランスパンをスープにつけて頬張り、代官山の蔦屋書店で本をお互いに選書し合った。その帰りに、あの、と話しかけられた。
「わたしは亮太さんみたいにありのままの自分とかないです」
人によっては、本来の自分というものはなく、自分のいる場所や一緒にいる人によって、自分の姿かたちが変わる感覚を持っている人もいる。他者に合わせて自分をぽこぽこ作っている。他者への応答を通して自らを作っていく友達は、好きにしていいよとか、あなたはどうしたいの?と聞かれてしまうと困ってしまうようだ。
小説家の平野啓一郎は、自分を分けることができるという意味で、この種のアイデンティティを「分人」と呼んだ。もう分けることができない「個人」が一つしかないのとは対照的に、「分人」は一緒にいる他者やその時々にいる場所に従って無数にいる。誰かを好きでいるということは、その人と一緒にいるときの自分の分人が好き、ということになる。特別なありのままの自分なんてない。
母だけでなく、先生も生徒なくして先生にはなれない。誰かの恋人であることも、誰かの旦那さんであることも、誰かを必要とする。Xの1万いいねも誰かのいいねなのだ。「各人にとってはじぶんがだれの他者でありえているかの感覚が、〈自己〉の同一性感情の核をなす」、そういう人は確かにいるのだと思う。
*
ほんとうのじぶんなんていないのだろうか、と疑問に思う。生まれた場所が千葉じゃなくて広島だったりとか、受験の日に風邪を引いて違う中学に進んでいたとしたら、違う自分になっていたのかな。なっていたんだとは思う。
でもそれってつまり、今の自分は偶然の産物に過ぎなくて、これからもそうってことなのかな。偶然なじぶん。容易に他の誰かであり得たじぶん。そんなもんなんだろうか。バレーサークルの友達が「過去の出来事が違ったら、今の自分じゃなかっただろうし、自分なんてそんなもんかなと思ってる」とぽつりと言っていた。
他者によって自分が作られることと、他者と一緒に自分を作っていくことって同じことなんだろうか。他者とは無関係にありのままのじぶんがあるなんて思わないけど、じぶんなんてものはなくて、じぶんらしさって単に社会の中で作られるもので、白紙の自分に他者が絵を描くように、全部他者に教わったの?全部、社会の中で決められて、獲得したものなの?
じぶんらしさが一つひとつの出来事で形作られていくなら、言葉もまだろくに話せない一歳の頃の自分の8ミリカメラのビデオを見て、変わらないな、と思うのだろう。父親に悪戯されても、悪い顔ひとつせず、怒ることもできずに笑ってご飯をもらおうとする、いかにも人畜無害そうな一歳の黄色いちんちくりんのことを、どうして自分だと思うのだろう。どうして、同じ幼稚園のぞう組の、真面目だったかずふみくんが研究に身を浸していることを20年越しに知って、かずふみくんらしいなと思うのだろう。
3-2. 私がわたしであること
やわらかくて優しげな雰囲気は、生まれたときから持っていたような気がする。人に対して怒って、争うことはずっと苦手だった。かずふみ君も20年間で本当に色んなことがあったと思うんだけど、ぞう組だった時のかずふみくんにもかずふみくんらしさは表れていたんじゃないのかな。
俺は、「建内亮太」という自然なじぶんがいると考えないと、じぶんのことを説明できない。自分にはどうにもならない「建内亮太らしさ」が俺の中にじっと眠っていて、現時点での「建内亮太100%」という見えない物差しがある。単に経験の集まりで、社会に規定される訳ではない。
けれど、それがほんとうの自分で、今が嘘の自分だとは思わない。ありのままの自分がいて、そうでない自分がいるとは思わない。今だって自分は自分だもの。だから、「自然なじぶん」という概念があるのだと思う。他人の声も社会からの要求も雑音にならずに愛おしく聞こえ、その呼び声に応えることを心地よく望んでいるじぶん。いまここにたどり着くためであったのなら、人生の全ての出来事が必要であったと、すがすがしく感じられるようなじぶん。誰のこともうらやましくなく、これがじぶんであると心の底から満足できるじぶん。
本当か嘘か、ありのままかそうでないか、そんなことはわからないし、本当かどうか、ありのままかどうかなんて誰もわからないんだと思う。けれど、本当に楽しくてのびのびといられる時、確かに「じぶんじしん」であるような時がある。ポテンシャルとして自分のなかにあるとも言えるし、鍛えて育ててそれになっていくような、自分のそとにある目標みたいにも見える。
だから、俺はいつも、あなたがあなたであるということがどういうことなのか知りたいと思ってきた。あなたは誰?あなたがあなたであるというのはどういうこと?あなたらしさはどこにある?あなたはいま、あなたでいられているの?けれどあなたは言う。
「わたしらしさなんてどこにもないのよ。他人に合わせて自分をつくるんだもの。」
俺は応える。それは、あなたがあなたであるということなんではないの?それこそ、あなたがあなたであることなんではないの?他人に合わせて自分を作るというそのあり方が、他者への応答のなかに無数の自分がいることが、あなたらしさを表しているんではないの?
3-3. 危機に際して、ひとは哲学する
もし、自然なじぶんというものがあるとしたら、その自然なあり方と、自分が社会に占める位置・他者と関係を結ぶあり方が一致している状態を幸せと呼ぶのかもしれない。ひとは皆、常にそれを求めている。逆に、いまの自然な状態と社会的な状態があまりにも乖離してしまっている状態は危機的な状況だろう。
たとえば、自分が他者にとって誰であるかが大事で、調和の取れた人間関係を望む人にとって、恋人や家族とのいさかいほどしんどいこともないのだと思う。自分と他人の区別が曖昧で、大きな流れに身を任せるのが心地よい人は、個人で目標を設定し、それを着実に達成していくような職場は苦痛だろう。社会の中で確かな存在として認められることが大事な人は、結果を出すための努力を惜しまないがあまりに、自分の首をしめてぼろぼろになっていたりする。
自分がのびのびいられる自然な状態と身の回りの状況が異なっていることによって、その食い違いが危機を生んでしまう。
*
危機は、ある日突然現れる。布団から起き上がれなくなったり、涙が止まらなくなったりする。通勤路・通学路がやたら遠くて、立ち止まってしまう。なんとなく気分が落ち込んで、ずっと戻ってこない。そのように明瞭に目に見えるのは、身体に起こった反応である。うつ病と診断されてようやく、自分の身に起こった異常を知ることもある。
憂鬱でやる気が出ない。行きたくない。ご飯も食べたくない。なんだかお腹がいたい。頑張っているのに、どこか虚しい。虚しさを埋めるようにただ動いている。肩書きにも生活にも不足なんてないはずなのに、ほんとうはどこかさみしい。何かが違う気がする。どうしてこの人生だったんだろうかとぼんやり外の景色を見ている。心にぽっかり空いた穴がふさがらない。どこにいても何をしていても、あなたのことばかり。
自分がのびのびいられる自然なあり方と、社会的な状況に齟齬が発生してしまうと、私たちはほとほと困ってしまう。そして、途方に暮れるとき、ひとは哲学することを迫られる。わたしだけの問いが目の前に現れる。
「いま自分はどう感じてるんだろう?」
「何でもやもやするんだろう?」
「何がつらかったんだっけ?」
「そもそもどうしたいんだっけ?」
「楽しい時ってどういう時だったかな」
「幸せってなんだ?」
「どこに行けばいい?」
「誰と一緒にいればいい?」
「いま何をすればいい?」
風邪を引いた時に健康な自分を想像するように、しんどい時にみずみずしく、のびのびとしていられるじぶんを夢見る。もしくは、社会・他者と良い関係でいられなくなったときに、もう一度、社会・他者と新しい関係を結ぼうとする。長く付き合っていた恋人と別れたとき、会社にはもういられなくなったとき。
誰しもが危機において、じぶんを見つめ直す。じぶんって何なのか。わたしとは誰だったのか。何を求め、何に喜ぶのか。何に怒り、何が許せないか。何を目指していて、誰と一緒なら無敵でいられるのか。どこならのびのび安心していられるのか。どうしていたら、何で生きてるかなんて考えずに済むのか。
自分だけの危機に対応するとき、GoogleやチャットGPTはあんまり頼りにならない。自分だけの問いに答えるには、どちらかといえば自分の頭を、そして本を、さらには一緒に考えてくれる他者を必要とする。
4. おわりに
哲学くんはいつも俺のことを見ていて、俺が困っていると、問いを携えて笑ってやってくる。哲学の時間が来たことを喜んでいるみたいだ。というより彼は、いつも俺のことを見ていて、いつも俺のことや俺の人生のことを一緒に考えたり、話がしたいと思っている。
でも、俺は忙しい生活にかまけて哲学くんを無視して放っておくから、彼は寂しい思いをしているのだろう。俺が頭を悩ませて、答えを探し求める間、哲学くんは満足そうに隣に座っている。何にも助けてくれないくせに、問いだけ出してくる。困ったやつだ。
哲学くんにまとわりつかれるせいで、俺は本を読んだり、誰かと話をしたりしないといけない。自分がのびのびと幸せにならない限り、哲学くんは俺を解放してくれない。もやもやが悩みが消えてくれない。
皆もそばに哲学くんがいるんじゃないだろうか。皆のそばに哲学くんが現れた時に、一緒に考えられるような人になりたい。自分という人間の魂の輪郭を確かめて、ちゃんと安心できるような場所をつくりたい。
(おわり)
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