見出し画像

【みみみの読書記録①】山下紘加『あくてえ』がフェミニスト的にめっちゃ面白かったという話。

あたしの本当の人生はこれから始まる。小説家志望のゆめは90歳の憎たらしいばばあと母親と3人暮らし。ままならなさを悪態に変え奮い立つ、19歳のヘヴィな日常。

河出書房新社 単行本『あくてえ』の内容紹介より

※タイトルの「フェミニスト」とはすなわち私(みみみ)のことです。巨大主語ですみません(笑)。

受賞者発表からかなり時間は経ってしまったが、ようやく以前から気になっていた第167回芥川賞候補作・山下紘加『あくてえ』を読んだ。
今年の芥川賞は候補者全員女性ということで、普段は本屋大賞も直木賞も追いかけない私もちょっとだけ気にしていた。半分は「全員女性?素晴らしい」という気持ち、そしてもう半分は「女性活躍を商業主義に利用されていなければいいけど」という気持ちだった。
女性がジェンダー平等の名のもとに担ぎ上げられ、しゃぶりつくされ、潰される。いろんな分野で女性が活躍して欲しいと願いつつ、彼女たちが前に出てくると勝手に「大丈夫かしら…」と不安になる私は、芥川賞の候補者を見たときも若干そんな気持ちになっていた。前回記事(「リベラル大学生がわりと真面目に選挙活動やってみた」)でも書いた通り、「多様性」と言いながらどれだけ裏で女性が搾取されているか……

――が、『あくてえ』はそんな不安など一気に吹っ飛ばしてくれるほど素晴らしい小説だった。
実は単行本もまだ買えていなくて、図書館で雑誌「文藝 2022夏」読んだだけなので今手元にあるわけでもないのだが、忘れないうちに書いておきたいと思いブログを更新した。どうせ後ですぐ買うし。

ということで以下は感想です。ネタバレにならない程度に語ったつもりだけど、気にする方はここでバックを。



『あくてえ』は、小説家志望で19歳派遣社員の「ゆめ」、その母でパートタイム主婦の「きいちゃん(沙織)」、そしてゆめにとっては祖母、きいちゃんにとっては義母である「ばばあ」、3人の女性を取り巻く物語だ。
「ばばあ」には介護が必要で、きいちゃんは「ばばあ」のためにパートの時間も調整して必死に介護し、ゆめはそれを手伝いつつも、何も文句が言えないきいちゃんの代わりに「ばばあ」とやりあう。「ばばあ」は気が強くて意地汚く、「あくてえ(悪態)」をついてはゆめをぶちぎれさせる。ゆめの父(「ばばあ」の息子)は、浮気をして子どもを作って出ていくし、「ばばあ」の面倒もろくに見られないし、挙句の果てに生活費の仕送りも滞納するわで介護に関しては全くの役立たず。3人の暮らしはじわじわと追い詰められていって……
という、まさに読む地獄、読んでいるだけでゲボを吐きそうな小説である(誉め言葉)

読みながら自分の眉間にどんどんしわが寄っていくのが分かるし、なにがなんやら泣けてくる。けれどもどんどん読んでしまう。
この「地獄」でありつつ「読ませる」文章の上手さももちろん魅力だが、個人的に一番この小説がすげぇ!と思ったのは「登場人物の解像度の高さ」である。人としての複雑さ、みたいなものかもしれない。

ジェンダーを扱う小説で私が時々不満に思うのは、この「人間の複雑さ」がすっぽり抜け落ちていて、あまりにも分かりやすい敵(クソ男やいわゆる「名誉男性」)が存在していたり、今目の前に迫りくる「現実の暴力性」から隔絶されたような、すごく無菌室な空間で多様性が語られたりすることだった。私はフェミニズムもジェンダー論も大好きで愛してやまないのだが、そういう小説を読むと「うーん」と思う。そしてそういう小説を「これは傑作だ!」と持ってこられると、いつも申しわけなく思いつつ読まずに置いてしまう。ごめんね、リア友のみんな。実は一時期流行った『(ホニャ)年生まれ(ホニャホニャ)』もあんまり面白くなかったのよ……。

だって私がフェミニストとして闘っている相手は、家父長制を煮詰めて出来たような人たちだけじゃない。
分かりやすいドクズではないけど一歩足りない男たちでもあり、そんな男たちに甘えたり、彼らの横暴を許したりする私自身でもあるから。そして完璧なフェミニストで居たいと思いつつ、私たちの目前にはままならない現実が暴力性を持って存在している。それを跳ね返して自分を貫くのは、あまりにも難しい。ていうかそもそも「自分を貫く」って何だろうか。何にも影響されない、自分なんてあるだろうか?

もちろん『あくてえ』の主人公・ゆめはフェミニストではないし、別にジェンダー論をやってるわけじゃない。「ばばあ」の容赦ない悪態に、クソ親父が「ばばあ」の面倒を見ないことに、きいちゃんが馬鹿丁寧に「ばばあ」の介護をやってのけることに、苛立ちながらも毎日を過ごす「普通の女性」だ。
でも『あくてえ』をジェンダー(を扱う)小説として読んだとき、一筋縄ではいかない人間の姿が浮かび上がってくる。「ばばあ」や父親はもちろん、きいちゃんもゆめも完璧な善人なんかではない。きいちゃんは自己主張せず「ばばあ」の介護を続けることでゆめを縛り付けているし、ゆめは不機嫌を隠さず恋人・渉を深夜に呼びつけドライブさせる。
渉はそんなゆめに付き合うけれど、ゆめの不機嫌を「生理なんだろ、じゃあ仕方ないな」で片付けたり、高卒に差別意識を持っている。ゆめの不機嫌を自分なりに解釈しようとするのは、渉の優しさかもしれないが一歩足りない。
一方、悪態ばかりつく「ばばあ」は、自分の息子が大好きで、心の底から求めているのは息子からの関心で、でも自分の帰る場所はきいちゃんとゆめのところしかないと分かっている。
父親は都合の良い時だけふらっと現れる、ゆめにとっては本当にむかつく親父だけど、再婚相手との子どもにはたっぷりお金と時間をかけているようだ。誰にとってもクソ親父というわけではないのだ。

そんなわけで、つまり私が言いたいのは――『あくてえ』には、私たちが闘う社会がある
苛立ちながら、「あくてえ」をつきながら、それでも続く毎日がある。やりきれないし何にも綺麗じゃないけれど、そんな社会をそのままに描いてくれた山下紘加さんに、フェミニストとして感謝したい。次は『エラー』読みます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?