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言葉と理性と「本当の自分」の話

 久々に筆を取った気がする。生活が忙しいのはもちろん理由としてあるが、正直ちょっと文章を書くことが億劫になっていた。自分の中に乱雑に散らばった思考を違和感のない言葉に直し、それを記事としてアウトプットする作業は正直エネルギーがいるからだ……。

 今回はそんな言葉について考えたことを綴らせていただきたい。今回の記事はこれまでのふたつの記事とは異なり、ライフハックや社会に対する問題提起ではなく、私自身の価値観の話だ。これから語ることを強制するものではないし、あくまで「私はこうだ」というポジショニングを明確にするものでしかないので、そちらを留意してご覧いただければ幸いだ。

前置きはこんなところにしておいて、本題に入ろう。私は現在就活中の身であり、それに際して面接をいくつも経験している。その中で強く感じるのは「言葉が自分の手元を離れていってしまっている」ということ。

 例えば「自分の強み」なんて言われて過去のエピソードをそれらしく語ってみたりだとか「将来のビジョン」みたいな聞こえの良いものを語っていると、「本当にこれは自分の考えなんだろうか」という自問に苛まれるわけである。

 本当に私はこんな言葉通りの人間なんだろうか……現実の自分と空想上の自分が解離していく感覚……。で、そこでふと思う。そもそも「本当の自分」ってなんだよ、と。

 たとえば世間では「酒が人をダメにするのではない。酒は人の本当の姿を暴くに過ぎない」みたいな言葉がある。これに対して私は「なんだか乱暴だなぁ」と思ってしまう。私自身の酒癖が褒められたものではないのでこう言うと言い訳めいた響きになってしまうかもしれないが……(笑)。酒が人の欲望を忠実に炙り出すことは確かかもしれないが、それは果たしてその人の「本当の自分」なのだろうか。それは理性の存在を蔑ろにした理論であると感じてしまう。

 それどころか、むしろ私は理性こそが「本当の自分」を確定するのではないかと考えている。なぜなら衝動は事象に対する反応でしかないが、理性は「欲望=衝動を自認した上でどのように行動するべきか」という価値判断であるからだ。

 ただ、理性を捉えるという意味で、衝動や欲望の存在も無視することはできない。衝動が理性に対して負けてしまう場合を考察したい。その行動は一見衝動のみによって行われているように思えるが、その行動に至る前に一度は理性が「自分のあるべき姿・取るべき行動」を脳裏に過らせる以上、何が正しいという理性が内在していることになる。そのため、理性を最も実感する時が衝動によって行動を起こそうとした際であると言える。

 これまで理性がパーソナリティを確定することについて述べてきた。ではそれを自覚したとして、我々はどのように行動するべきかということに話を移したい。

 私が提唱するのは、「理性によって行動を完全に管理できる状態が、最も正しい生き方である」という理論だ。これは見ようによってはとても窮屈で、一見衝動や本能を蔑ろにした理論に思えるだろう。だが、私が言いたいのは本能や衝動のボリュームをある程度コントロールすべきだということなのだ。

 「べき論」で生きる人間はそれこそ人間味がないと思われてしまう訳だし、そもそも生きていて楽しくないだろう。だからこそ親しみを持たれる範囲、害を与えない範囲を理性によって自己判断し、「べき行動」と「衝動のアウトプット」のつまみを意思によって調整できれば、それは「本当の自分が考える理想を体現している状態」になるのではなかろうか。正確な意味合いは異なってしまうが、「TPOを弁える」という表現が近しいかもしれない。

 人生において、「自分をよく知るべきだ」ということがしばしば言われることがある。それを突き詰めると、「自分の理性を自認し、つまみを自分の手に取り戻すべきである」という主張になるのである。

 先日「言語化力」という本を読んだ。その中で「言葉を信じること。そして同じくらい言葉に怯えることである」という表現があった。言葉は自分の立場や思考を自分より高いところへ誘ってくれる。ただ、それに身を任せることはある種思考の放棄であるように思えてならない。

 本著における「怯えること」は相手がどう言葉を受け取るかを考え、慎重になることを指していたが、自己の中の言葉においても常に怯え続け、慎重になった上で、主導権を自分が握り続けることが重要であると考える。

 自分の思考は誰の影響を受けているのか、それは許せる影響なのか。流されていないか。自分の言葉で喋れているか──ある種石橋を叩いて渡るような姿勢が重要なのかもしれない。

 やや理論が飛躍してしまった感があるので、今一度原点に立ち戻って本記事の締めとしたい。

 言葉が自分から離れていくような実感を得る場合、結局のところ、自分の言葉で語れていないのである。とはいえ経験していないことを理想と語り、それらしいビジョンを発信する──それ自体は決して悪いことではない。

 ただ、理性を見つめ直し、自分自身を今一度問いただすことで現在地を知ることも同時に重要である。その上で言葉に行動を追いつかせる努力をする、常に理性で自分の人生をハンドリングする“マニュアル操作的選択”をし続けることが、自分のなりたい姿に近づく最も堅実な方法なのかもしれない。

 


  

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