映画「ジョーカー」に見る、大衆心理とデモの可能性
劇場で“無関心”を思い知る
2020年7月8日、映画「ジョーカー」がNetflixにて配信開始された。本作品は2019年10月4日に公開され、当時はそのセンセーショナルな内容から賛否両論巻き起こり、世間を賑わせていた記憶がある。
私自身も例に漏れず劇場へひとりで足を運び、本作を観賞した。ただ、そこで感じたのは深い絶望と呆れだった。それは映画の内容に対してではない。映画を見終わった後の客の反応に対してである。
エンドロールが流れ、シアター内が明るくなっても私はしばらく立ち上がれずにいた。すぐに立ち上がって「さあ、帰ろう」だなんて思えないほどテーマが深く、またその余韻を噛み締めるべきだと感じたからでもある。しかし、周囲の客はめいめいに「主演の俳優さん、意外にカッコ良かったね!」「ジョーカー怖かったー!」などと明るい声色で口にしていたのだ。
本作のテーマは「迫害され続けた弱者性が、いかにして暴力性へと昇華されたか」及び「差別構造がいかにして生まれるか」といった恐ろしく現実的なもので、ある種のノンフィクションと呼んでも差し支えないほどのリアルがそこにはあったように思える。どこまでも現実的な問題を目の前に掲げられ、それに対してあくまでコンテンツを消費する立場に甘んじているその当事者意識の低さの方が、私にとってはジョーカーより恐怖の対象であった。
ただ、だからこそこのような問題が世間に蔓延っているのだと考えると、これもまた象徴的な出来事ではある。
作中に、印象的なセリフがある。本作の中盤に、後のジョーカーであるアーサーに対するカウンセリング及び薬の処方が止められる。その際にカウンセラーに対して「僕の話は 聞いていないよね何一つ。毎週同じ質問ばかり(中略)悩んでばかりさ。僕は自分が存在するのかがわからなかった」というセリフを吐いたのだ。
つまり、世間の無関心が彼の存在意識の欠如を生んでいたということだ。こういった“叫び”を聞きつつもまだ無関心でいられる大衆の心理──それこそが、ジョーカーを生んだのである。
さて、私は今回のNetflixでの配信をきっかけとして、2度目の視聴を終えた。その中で、やはりこの作品は──この問題提起は忘れてはいけないものであるとの意識を新たにした。
だからこそ、再度この作品について暴力性や差別について語らせていただこうと思う。以下、注意点を記載させていただく。
まず、ここから先はかなりのネタバレを含むので、それを理解した上で読んでいただければ幸いだということ。
第二に、読者が本作を観たことを前提とした語り口になっているので、作品を観ていないと理解しづらいかもしれないこと。
そして最後に、「バットマン」も視聴していないので、あくまでも「ジョーカー」のみを視聴しての問題提起となるのであしからず。
それでは早速、本題に入ろうか。
極めて卑近なジョーカーという悪性
以前こちらの記事でも差別的構造について筆を取らせていただいた。
その際に、「社会に蔓延る暴力性に対する不認識こそが差別の根元である」との指摘をさせていただいたが、「ジョーカー」においてもそのような構造が顕著に現れていたように思える。
そもそもアーサーは生まれついての悪人ではない。どころかバス内で子どもがいれば笑わせようとするほどに“いいやつ”であり、母親の介護も甲斐甲斐しく行う純朴な少年だという印象を受ける。
だが、勤め先では突然笑い出してしまう障がいのせいもあり不気味がられていたり、追い剥ぎにあってしまったりと世界は彼に優しくない。そんな彼は幸福であるどころかカウンセリングにて「自分が本当にいるのかどうかすらわからない」といった発言をするほど、自分の生きている意味を見失っていたのだ。
そういった意味でジョーカーは決して生来的なわるものではないことが窺える。アーサーをジョーカー足らしめたのは、普遍的な怒りや憎悪や劣等感、そしてそれを頑として救わない社会である。
社会は基本的に、不器用なやつや能力のないやつに優しくない。基本的に、資本主義においては「有能なやつ」「頑張れるやつ」が奨励され、「頑張ってもダメなやつ」「そもそも頑張ることが困難な層」は最低限の生活が保証されるのみであって、それ以上の待遇が得られることはない。
それどころかそういった弱者に石を投げつけることがある程度容認されている節すらあるだろう。ネット上で「池沼」や「アスペ」などの言葉が蔑称としてスラング的に使われている背景からもそれは明らかだ。我々も意識的であれ無意識的であれそういった流れに与していることは言うまでもない。
このようなセーフティーネットの縄目の荒さ、あるいはそれによって創出される差別的な気運が、彼をジョーカーたらしめたことは間違いないだろう。それは決して他人事ではなく、我々の世界と地続きになった社会問題であり、コンテンツとして消費するにはあまりに重たい問題に思えた。
もう暴力しか道は残されていないのかもしれない
前述したような格差が蔓延する社会において、弱者が声を上げ、存在を主張することが重要であることは確かであろう。そうしなければ問題が浮き彫りになることすらないのだから。ただ、弱者の声が無視されることもまた確かだ。
作中でもアーサーは父親だと目される男に何度も助けを求めるシーンが描かれていた。その時はアーサーは母の言を信じ、彼を父親だと信じていたため「パパ、僕だよ」「困らせる気はない」という言葉で彼からの肯定を求めた。しかし、それに対する男の対応は暴力だった。「息子に近づくな」「お前の母親はイカれている」そう罵ると、手痛く彼を拒絶したのだ。
実際にアーサーの母親は精神疾患を患っており、彼がアーサーの父親だという事実はなかった。なので迷惑だという気持ちはわからないでもない。ただ、追い詰められて縋ってくる弱者を拒むために暴力まで使用する必要があったのだろうかと考えてしまう。懇切丁寧に説明してやり、彼の言葉に寄り添うという選択肢だってあったはずだ。
ただ、確かに言えるのは彼にとってアーサーは救うべきものなどではなく自分に仇なす小蝿のような存在にすぎなかったということだろう。それほどまでに人間は他人に無関心なのだ。
また、当然のことであるが弱者は強い発言力を持っている訳がないため、広く社会に影響を及ぼすことはひどく困難である。では、こういった泥沼を解決するにはどのようなアクションを起こすべきなのだろう──。
もしかすると、もう暴力にしか可能性は残されていないのではないか。
もちろん人を殺すことを肯定したいわけではなく、犯罪を横行させるべきだという主張をするつもりもない。だが、社会はコトが起こってようやくそれに対する対応を考える。だから、それを認識させるほどのことを起こさないと結局何も変わらないという可能性は、かなり大きいような気がしてしまうのだ。
悪の持つカリスマ性と必要悪
アドルフ・ヒトラーしかり、麻原彰晃しかり、悪性はしばしばカリスマ性へと転換される。研ぎ澄まされた思想が一定の層の心を動かすことは、歴史が証明している。
先に挙げた彼らの思想には共感できず、手段としての暴力は無制限に許されることではないと考えている。では、彼──ジョーカーはどうなのだろう。彼の葛藤には、共感できてしまった。しょうがないと思ってしまったのだ。それゆえに考えてしまう。「果たして正しいとはどういうことなのだろう」と。
「人を殺すことはいけないことだ」「だが、社会がそれに走らせるような構造になっていた場合、それが理由で殺人を犯した当人だけが責められるのか?」「殺人しなければどうにもならない状況にいる人を責めることができるのは、我々が安全圏からそれを眺めているに過ぎないからではないのか」
そんな疑問がグルグルと回るのだ。そしてその中で浮かんだのは「必要悪」という言葉であった。殺人は社会的・倫理的に正しいとは言えないが、その行動によって弱者の声が噴出し、社会に認識されたことは明らかである。そういった意味で、彼は必要悪になったのだろうと私は思い至ったのだ。
そして、その必要悪が周囲を巻き込む大きな渦をつくり、社会に影響を与える───そんな暴力の可能性が、作中では提示されていたのである。
彼は必要悪になどなってはいけなかったのに
私が一番最初にこの作品を視聴した時に真っ先に感じたのは「彼は、祭り上げられてしまったんだな……」ということであった。彼は殺人をもってして悪のカリスマになった。しかし、それは彼にとって最悪の不幸であったに違いない。
彼の最大の悩みは存在の自覚の足らなさであった。それは地下鉄での殺人行為をきっかけに解決に向い始め(作中でアーサーは「世界も気付き始めている」と語った)、キャスターの殺人を通して完全に自分の存在を確定させた。
ところで、「ジョーカーはハッピーエンドである」との論調もネット上では散見される。曰く、「彼は暴力によって自らを偽ることをやめ、あるがままに生きることを選んだのだ」というロジックだ。
だが、私はその意見には共感しかねる。今回の顛末におけるジョーカーの誕生は、彼にとって幸せな意味を持つ「存在の確定」ではなかったのだろうと感じるからだ。
人間は他人からの認識によって存在を確定される。多くの場合は両親からの愛情を受けて自分が存在しても、愛されてもいい存在なのだと知るのではないだろうか。
しかし、彼は幼い頃から暴力の中で育った。そういった意味でこれまで彼は自己を肯定されてこなかったのだ。しかし、この事件をきっかけにアーサーは悪意と羨望に塗れた自己の確定のされ方をしてしまった。
それゆえに彼はこれから先の人生もその型にハマるように、もっと言えば自分を支持してくれる層に受け入れられるためにさらに悪性をこじらせていくことが予想できるのだ。彼は必要悪になったことで、「自分から深い闇に沈んでいくような生き方」を獲得してしまったと言える。
それでも何者にもなれないよりはいいという意見もあり得るが、この悪に振り切れるという覚悟はどこか切なさを帯びた、悲しい決意だと思えて仕方がない。
彼はそうせざるを得なかっただけで、決して幸福になれたわけではないのだ。
なぜジョーカーは問題作となったのか
やや本旨から外れてしまったので、話を本筋に戻そう。
ジョーカーが問題作として注目されたのは、暴力の可能性を提示してしまったからではないかと、私は考えている。基本的に立法上も道徳上も殺人はもちろん暴力はいけないことだとの前提がある。「人をぶっちゃいけません」なんて幼稚園ですら教えているほどだ。
では、無関心という暴力はどうなのだろう。我々が無意識にでも加担している格差拡大という暴力は責められずして、わかりやすい暴力のみを責めることは本当に正義だと言えるのだろうか。
このような問題提起をするどころか暴力による社会課題の解決という可能性すら本作は提示して見せた。
私自身もその可能性に対してどのようなスタンスで向き合うべきか、まだ決めあぐねている。だが、あくまでもそういった善悪を世間の言う常識で測るのではなく、当事者意識を持って思考し続けたい。
それが問題提起をされた者の、せめてもの誠実であろうから。
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