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エッセイ 舌は笑いの根

 最近は、なぜだかあまり聞いたり使ったりしなくなったが、"箸が転んでもおかしい年頃"という表現がある。

 ちょっとしたことでもなぜかケラケラと良く笑う、概ね10代後半の女性のことをいう。

 私はたまたま、10 代後半、つまりムンムンの思春期である中学と高校が、エスカレーター式の男子校だったのだが、たとえその場に男しかいなくても、その年頃は隙あらば笑おうと常に身構え、互いにネタを察知するアンテナを張り巡らせていたような気がする。

 笑いには、ものすごく大雑把に分けて2種類ある。広い範囲…つまり社会的か、それとも狭い、いわゆる身内受けか?

 チャップリン や吉本新喜劇などは、もちろん前者に該当するが、たとえは中川家のそれこそ"おかん(母親)"ネタなどは、それらに比べると、かなり範囲が狭くなり、そのかわりより鋭く深くなるから、後者に近くなる。

 身内受けの笑いは決してお金にはならないが、その場の空気を共有している者だけが味わうことができるという意味では、長い人生を遠くまで振り返った時、かなり貴重なものになる。

 わかりやすい例が"教師の物真似"。
 少々似ていなくても、知っている者は腹を抱えて笑い転げるが、他校の生徒とは少しも面白さの共有ができない。

 笑いが通用するか否かは、その教師の存在を知っているか否かによるのだが、私が言いたいのは、限定された人間にしか通じない笑いは、客観的な笑いにはない、それ以外の何か"特別な成分"が含まれている気がするということなのである。

 その探究は、私の今後の課題としておくとして、今日の話題は、"言い間違え"である。

"言い間違え" もしくは、"言い間違い" には、突発的な、単なる発声のミスと、誤った思い込みとの2パターンがある。

 往々にして、その場限りの口先でのエラーよりも、一度脳みそに誤植したままインプットされたあとに外界に漏れた場合の方が、私としてはより興味深い。

 高校時代に、その"言い間違い" の、大家、巨匠とさえ言われたのが、サッカー部の"K村"だった。

 当時、大雨や暴風の警報が発令されたら、幸いにも部活や学校が休みになったのだが、ある日、いつものように1年生がグランド整備をしていると、校舎から駆け下りてきた"K村"が、みんなに大声で、練習がなくなったことを伝えた。

「お〜い、みんな……警報が鳴ったぞ!」

 よくよく考えれば、大騒ぎするほどの間違いではない。

 言うまでもなく、この時代、警報は、"鳴る"のではなく、"出る"である。戦時中の空襲警報なら、けたたましくサイレンが鳴ったかもしれないが…。

 先に述べたように、笑いのネタに飢えていたチームメイトは、この些細なミスに食いついた。そして顔を見合わせてふと気付いた。

「そう言えば、K村って、普段からよう、単語を言い間違えるよなぁ」

「オマエもそう思うか? 実は俺も、ずっと気にはなってたんやけど、なんとなく、自分の中にだけおさめてたんや」

 これで地盤は固まった。

 K村が、「雨がどっシャー!と降った」と言っただけで、まわりがざわついた。

「警報が鳴る、の次は、雨がドッシャー! か?」

「なんかおかしいか?」と、K村が不審がる。

「たしかに"どしゃぶりの雨"とか、"雨がどしゃぶりや"とかは言うけど、雨がドッシャーとは言わんやろ」

 最後は、みんな優しくていい子だから、
「まあ、K村やから」で、事が収まってしまう。

 ところがK村は、さらに英語の授業でしでかした。

 教師が、K村に質問した。

「今は夏だ、を訳してみろ」

 教師はおそらく、「It's summer now.」という回答を期待したはずなのだが、K村は、「ナウ・サマー」と、文法を意識せずに答えてしまい、教室が爆笑の渦に巻きこまれた。

 それからしばらくK村は、「ナウサマー」と呼ばれると同時に、彼はその道…言い間違い…での第一人者となり、本人が気付かぬうちに、彼の発言を注視するマニアの数が増え始めた。

 そしてついに、起きるべくして"その日"が訪れた。その時、歴史が動いたのである。

 それは学校の最寄りの、甲東園駅前のラーメン屋での出来事だった。

 K村が、壁に貼り付けてある一品料理の品書きを何気なく口に出して読み上げたのである。

「さ め こ」

 当時の我々のチームワークと人間力、さらに歴史的遺産の保存と取り扱いにおいて、いかに意識が高かったか……。

 その瞬間、同席していた他3名は、もれなく全員が心の中で歓喜したはずなのだが、3人が3人とも、そのことを"おくび"にも出さず、その場でラーメンのスープと一緒に、無言で飲み込んだのである。

 よってK村は、自らがその時、致命的なミスを犯した事実に、気付かなかったのである。

 翌朝、早朝から教室の黒板に、号外として、大きく記載されていた。

「きのう、ナウサマーが、餃子(ぎょうざ)のことを"サメコ"と言った」。

 これを知った他のクラスの人間が、すかさず、自分のクラスの教室の黒板にも、同じことを書いた。

 1学年6クラス、およそ300名に、またたくまに情報が広がり、K村には生涯、それがつきまとうことになった。

 同学年に、K村と同じ姓の男が、もう1人居た。

 そのため、卒業してから40年以上経った現在も、同窓生どうしの会話で、たとえば、

「K村って、どっちのK村や?」

「"さめこ"とちゃう方や」というふうに使われる。

 さて、これまた、なぜか表記は、同じくK村となる、別の学友が居た。
 彼もまた、サッカー部だった。芦屋のボンボンで、タオル会社の社長の息子である。

 サメコの、K村は、N.Kだが、今度のK村は、T.Kであるから、ややこしいので、"T"と呼ぶことにする。

 Tの一番の特徴は、頭の大きさだった。中学の時は制服だったので、当然制帽を被ることになる。我々の制帽には、校章である三日月が、月光仮面のように付いていた。

 Tの頭のサイズは……大きかったことは覚えているのだが、正確な数値は覚えていない。おそらく、58以上だったはずだ。

 帽子のサイズで突然思い出したが、これまた、イニシャルが、K …M.K だから、このさい"M"と呼ぶが、そのMも、実は中学1年の時にやらかした。

 男子の学生服には、首まわりに"カラー"と呼ばれる白いプラスティックの板が必要なのだが、これが時々割れてヒビがはいる。するとそこに首の皮が引っかかって、実に痛い。

 よって、カラーはある意味、学生服の消耗品であった。

 新しいカラーは、中学の正門前の商店で買うことになっていた。店の名は、"テーラー池上"。

 Mが友人とともに、ある日テーラー池上を訪れた。店の奥さんにサイズを問われたMは、とっさに、57 と答え、奥さんは、そのサイズを律儀に探し始めた。
 しかし首回りである。そんな大きなサイズのカラーの在庫があるはずがなかった。

 Mが申請した57は、カラーのサイズではなく、帽子のサイズだったのだ。

 この、Mの事件は、のちに我々の手で作られた、"中学部カルタ"にもとりあげられたほど、有名な事件になった。

 ちなみに、中学部カルタの【て】、は、「テーラー池上、○田のカラー」である。
 余談だが、我々が厄年を迎えた時、私はこの○田と一緒に会社をやっていて、ちょっとしたトラブルに見舞われ、新聞やテレビにとりあげられた。もちろん、敬称なしで。
 これもまた、不思議な縁である。

 大きなサイズがらみで、また別のエピソードを思い出してしまった。

 同じクラスの、F元は、なぜか毎日、休み時間になっても席を離れず、自分が履いている黒い革靴を、布やティッシュでずっと磨いていた。
 ものを大切にする気持ちは、好意的に理解できるが、その熱心さが限度を越していた。

 ある日私は、悪気なく、素直な疑問を本人に直接ぶつけてみた。

 するとF元は、一瞬、靴を磨く手を止め、私に、

「いっぺん、この靴を、靴屋で探してきてみ……探せるもんなら」と、意味深長に言ったのである。

 そう言われて、Fが持つ靴をしげしげと見て、ようやく気付いた。

 巨大なサイズだったのである。

 今から思えば、29センチだったような気がする。

 本人いわく、日本ではなかなか手に入らないサイズだと言うことだった。

 話がサイズに脱線してしまった。
 Tの、"言い間違い"に戻す。

 Tはまず、当時流行ったコーラスグループを、"ハイハイセット"と呼んだ。
 正しくは、"ハイ・ファイ・セット"である。

 けれどこの程度は、たいしたことはない。"だんだんウキウキバンド" (ダウン・タウン・ブギウギ・バンド)も、同レベルである。

 それより異彩を放ったのは、通学列車に吊り下げてあった、映画館の広告の文字だった。

 1976年、日仏合作映画、大島渚監督の、"愛のコリーダ" を、Tは堂々と、"愛のリコーダ"と読んだのである。

 題名の「コリーダ」は、スペイン語で闘牛を意味する"Corrida de toros"からとっているのだが、リコーダなら小学校の音楽の授業で吹いた"縦笛"である。
 
 ちなみにこの"愛のコリーダ"は、昭和史に残る大事件、"阿部定事件"を題材にしている。

"阿部定事件"は、中居であった阿部定という女性が、愛人を殺し、なんと男性の局部を切り取ったというセンセーショナルな事件であったわけだが、そうなると、"闘牛"よりも、"縦笛"、つまり、コリーダよりリコーダの方が、よりテーマに沿っているように思えるのは私だけだろうか。
 
 冗談はさておき、映画のタイトルが出たことによって、いよいよ"言い間違い"のクライマックスが近づいた。

 今まで登場した人物、K村、M、Tは、各人それなりに存在感がある、いわば放っておいてもおもしろおかしく目立つキャラクターだった。

 ところが、そういうふうに、"目立つこと"自体を好まないキャラクターの人物も、当然学友には存在する。
 学生時代、出来ればひっそりと、無難にやり過ごしたい、おとなしい性格の者。

 そんなひとりが、N村だった。

 N村には、まったくもって、一切何の意図もなかった。

 ただ単なる、ささやかなつぶやき、小さな小さな独り言だったのだ。

 休み時間、教室の机と机のあいだを、後方から前方に向かってゆっくり歩きながら、ふと私の机の上に置いてあった映画のパンフレットを見てつぶやいたのである。

 私はその数日前に、神戸三宮にあった格安映画館、"ビッグ映劇"でその映画を観て、たまたま気に入ったので、パンフレットを買って学校に持参していたのだった。

「ジャカルタの目…か……」

 そう言って、N村は通り過ぎて行った。

 その後、いったいどういう流れでこの話が有名になったのか、残念ながら我々の歴史はその資料を残していない。

 ただ、この独り言が、彼の運命を大きく変えた。一躍、有名人になってしまったのである。

 映画のタイトル……原題は、"The Day of the Jackal"

 邦題は、"ジャッカルの日"だった。

 

 

 

 

 

 

 

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