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エッセイ 等持院 茶室 清漣亭

  【京都あれこれ】
                
 20歳を堺に3年ほど京都に住んだことがある。かといって下宿をしたわけではなく、友人の下宿を転々として過ごし、月に数回必要に応じて車や単車で尼崎の自宅に戻った。

 京都市内から尼崎までは、名神高速を使えば1時間もかからないが、西国街道をたらたら下ればたっぷりと2時間を要する。

 いくら若いとはいえ往復4時間の運転はそれなりの重労働なので、ついつい帰省の回数が減少してしまうのだった。

 京都という町は寺社が多いことで有名だが、実は学校の数が半端ではない。
 しぜんと多くの商店が学生を対象に営まれていて、たとえば本屋なども、24時間営業している店が当時からすでに存在していた。

 同時期の神戸や大阪などと比べても京都は格段に夜が長く、小規模な民間の経済は、ある意味地方から出て来た学生で持っているといっても過言ではなかった。
 
 地元の人間もそれをよく理解しているから、学生に対する風当たりが柔らかく、また大らかであったから、学生にとっては町全体がやたらと温かく感じた。 
 京都に居るだけで妙に落ち着くのである。
 盆地という地形も心理的に影響していたのかもしれない。 

 私は当時から音楽らしきものに多少関わっていたので、よその学生達との人間関係を築く端緒の間口が広く、そのために交友関係での貧しさを味わった経験が少しもない。

 私が学生だった70年の末から80年といえば、世界的にポピュラー音楽が最も栄えた時期で、次々と新たな波がおこり、優れた音楽家が湯水のように溢れ出た夢のような時代だったので、文系理系を問わず勘の鋭い学生は必然的に音楽に魅入られたのであった。

 私の場合は、私個人の資質よりも、むしろ京都に出てくる以前に付き合いがあった、音楽をやっている友人知人のおかげで、まわりの者から一目も二目も置かれた。

 彼らと一緒にバンドを組んでいた。
 同じライブに出た。
 さらには電話番号を知っているというだけでも尊敬の眼差しで見られ、私は難なく仲間内で大きな顔ができたのである。

 持つべきものは友だと痛感しながらも、こういう人のふんどし現象は実に滑稽な話で、つくづく馬鹿らしいのだが、それでも私はその役得を使用することに躊躇しなかったので、軽さも重さも引っくるめて、どんどん友人の幅が広がっていった。

 そうなるとやがては、極端に閉鎖的なことで知られる地元の人間たちとも関わるようになってくる。
 
 ある日、地元のIという学生が、近所の知人の従兄弟にあたるKという、さらに若い人物を連れてきて、

「こいつは自分の弟みたいなものだから、ぜひ一緒に遊んでやって欲しい」と申し出た。

 趣味や趣向を聞いてみると、音楽や文学はさっぱりやらない。いちおう大学の陸上部でハンマー投げをしていたそうだが、他に特にこれといった特技もないと言う。

 そこで兄貴分であるIが、すかさず補った。

「見てのとおり、何の取り柄もない平凡な男なんやが、コイツの住んでる家には国宝や重要文化財がある。まして研ちゃん(私のこと)が涎を垂らすような日本庭園と、それを見下ろす茶室まである」

 私は驚いて、「お寺の子か?」と問うと、まさしくそうだと答えた。

 寺の名前は《等持院》といい、北区にある臨済宗の寺で、敷地内に足利尊氏の墓がある。

 幕末に加茂川の河原にさらされた足利三代の木像の首は、ここ等持院から盗み出されたものである。

 後日そこに住むKに年賀状を書こうとして住所をたずねたら、「北区等持院」だけで着くと、あたりまえのように言われたから驚いた。

 さて実際に現地を検証すると、禅寺独特の威厳と風情に溢れた中に、夢窓疎石作と伝えられる日本庭園が広がる。

 そして方丈の北の庭には、池をはさんだ対岸に茶室 清漣亭がひっそりとたたずむ。

 この茶室は通常の茶室とは異なり、高貴な者が茶をもてなすために、もてなす側からの景色の方が良いように造られているというから何とも気分が悪いが、ここでお茶をしたのが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康 等々とあるから、恐れ入るしかない。

 観光客である一般拝観者は夕方5時になれば誰も居なくなる。

 それからもう少し暗くなるのを待ってから、我々悪童は、信長や秀吉、家康らが使った茶室に居座り、珈琲を飲むのだ。
 このバチあたりな背徳観が、下関のフグのように、たまらなく身をしびれさすのである。

 Kの父親がこの寺の住職であり、必然的にKの家族がここに住んでいたのだが、当のKはこの家に一切ありがたみを感じていなかった。

 父親も、自分が退官したあと、何とか住職の座を息子に継がせようと考えたが、本人になかなかその気がおこらず、それなりに寺と息子の将来を案じていたという。

 私は自分の老後はこの茶室と庭園を私物化するしかないと決めたので、そのためにはどんなことがあってもKにこの寺を継がせる必要があったので、Kに対し執拗なる説得を企てた。

 しかしこれはKの父親や母親とも、目指す方向が同じであるという意味で利益が合致したので、我々は父親をも味方につけることに成功し、やがてKも説得に折れて納得し、僧侶の資格をとる決意を示し、すべては最高の流れになった。私の未来は安泰だった。夢の老後が保証されていた。

 等持院は臨済宗天龍寺派で、住職の資格をとるためには最低でも1年の住み込み修行が必要とされた。

 我々はKを修行に送り出すにあたり、贅を尽くした壮行会を馴染みの食堂を借り切って行った。
 
 それなりの時が流れる。

 さて、その時、私たちは北白川の下宿で、いつものように麻雀をうっていた。

 そこにKを最初に紹介したIが突然飛び込んできた。もちろん携帯電話などない時代である。

「おいみんな、たいへんなことがおこったぞ!」

 全員がまったく何のことだか見当がつかないまま、手牌を倒して、Iの顔を見つめた。

「Kのやつ、逃げて帰って来よった」

 その瞬間、私の老後の最高の楽しみがシャボン玉のように壊れて消えたのだった。
 
 時代は一気に現在に巻き戻される。
 
 携帯に電話をかけると、こちらが声を出すまえに「おおきに」と言ってKは出る。

 先日所用があって久しぶりに京都に上り、御池通の地下街でKと豚カツを食べた。

「研ちゃん、なんでそんな萩なんかに住んでるんや?」

 とたずねるから、私は昔を思い出して無性に腹がたった。

「お前がケツを割ったからやろ?」

「まだ根にもっとるんかいな」

「あたりまえや、おまえが寺さえ継いでたら、何百軒も檀家もかかえとったんやから、それだけでも十分に食うていけたやないか」

「あんな商売、今から思えば、せんでよかったわ。坊主なんかな、詐欺師と変わらへんで、おまけに税金も払わんと」

 どうやら単に論点をずらすのが目的ではなく、芯からの宗教商売に対する批判らしかった。

 しかし私の気持ちはおさまらない。

「世が世であるなら、殿の招きの月見酒」という《大利根月夜》の歌詞が自らに共鳴して頭をめぐる。

 そのあとも延々と私の恨み節が続く。

 しかし結局最後は、Kの心のこもった言葉で終わった。
 
「研ちゃん、堪忍や、堪忍してえな」
 
 この男、50才を超えても何も変わっていない。  了
 

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