大人の童話 雨とチョウチョウ
【雨とチョウチョウ】
久保研二 著
記録的な猛暑と言われる8月の朝は、寝坊をしたぶんだけすでに相当蒸し暑い。
仏さんにお酒を供え、チャッカマンで線香に火を点ける。そのあと浴室に入り、カランをひねって水を出し、シャワーヘッドを持ったまま空の浴槽の淵に足をかけてよじ登って小窓を開け、裏庭のネギとプチトマトに向かって水を飛ばす。
新鮮なシャワーが、およそ45度の放物線を描いて、黄色い夏に吸い込まれていく。
こうして裏庭のほんの一部にのみ、かすかに虹を描きながら人工的に雨が降るのだ。
モンシロチョウが一頭、空中を散歩していた。彼女は降り注ぐ水を避けるどころか、わざとその下に踊り込んできた。
小さく華奢な体には、たとえ数滴の雨水であってもそれが思わぬ大事故につながりかねないように思える。とは言いながら、たしかに蝶の羽根には鱗粉がある。
鱗粉の最大の目的は水を弾くことであろう、万が一水に濡れても薄く軽い羽根が重たくならないように……。
それでも、今降っている雨は決して小雨といえるものではない。人間ならば確実に、駆け出すか、タバコ屋の軒先に避難するか、それとも傘をさすだろう。
モンシロチョウが、羽根が濡れて墜落するかもしれない危険をわざわざ冒してさえ雨粒の下に潜ったのは、とにかく、つべこべ言うのがせんないほど暑すぎたからに違いない。
…………
「今朝は、いつもよりちょっと遅めでしたね」
プチトマトがそうつぶやきました。
「ほんとうに、人間というやつほど、アテにならない生き物はありませんからね」
と、隣のネギが答えると、
「いつもはもっと早い時間に雨が降るのですか?」
モンシロチョウの可愛い声が雨粒と一緒に降ってきたので、プチトマトとネギは二人して同時に上空を見上げたのでした。
「あぁ、凉しい」と、モンシロチョウは楽しそうにスカートの裾を持って踊って見せました。
プチトマトが心配して、
「大丈夫かい、服が濡れちゃうよ、さあ早くこっちにおいで、私の葉の下にはいればいいよ」
「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ、ちょっとくらいお洋服が濡れたって、雨があがればあっというまに乾きますもの、だってお空には雲ひとつないし、今日のお日様は知らん顔して堂々としておられるから」
ネギが、
「でも、最近のお日様は、ちょっと憎たらしくなる時があるよな。ここまで、親の敵(かたき)のように照りつけなくてもいいのに」
プチトマトが、
「でもやっぱり、お日様のおかげで私達みんなが生きているのですから、そんなバチあたりなことは言うものではありませんよ」
その時、水が届かない、ちょっと離れた場所でダラっと寝そべっていたヨモギが割って入りました。
「アンタらはいいよなぁ、毎朝毎朝、そうして決まった時間に雨が降って……どうしてこっちには降らずに、アンタらにだけ雨が降るのかねえ、ワシらが雨に恵まれるのは、お日様が陰ったあと、雨雲がのんびり到着してからだからな」
モンシロチョウが、
「私に力があれば、ヨモギさんのところにも雨を振り分けられるのですけどね」
「いいよ、そんな……最初から出来もしないことをわざわざとってつけたように恩ぎせがましく言わなくても」
「そんな……ヨモギさん。チョウチョさんだって悪気があって言ったわけではないのですから」
と、ネギがフォローしました。
「それはわかってるさ、でも、ワシらも一度でいいから、カンカン照りの日に、アンタらみたいに、雨のシャワーを浴びてみたいものだよ」
プチトマトが、
「なんだか申し訳ないですね、私達だけがこんなにいい目をして」と言うと、
「いいよいいよ、どうせワシらはこういう運命なのさ。そして、アンタらは生まれつき恵まれてるんだよ、♪ よか衆 よか帯 よかきもん(着物)というやつさ」
プチトマトとネギは、黙ってうつむきました。
その時、雨が天ぷらのように"サクッ"とあがりました。
プチトマトとネギが残念そうに空を見上げました。けれども、それまでに足元に染みこんだ雨が、彼らのためにだけ、しっかりと涼しさを蓄えていました。
「あぁ……いい雨だったこと」
モンシロチョウがくったくのない声を出しました。
ヨモギが、
「ちぇっ、いい気なもんだよ」と、嫌味っぽく吐き捨てると、モンシロチョウが、ヒラヒラと羽ばたいて、立ち去りながらヨモギに言いました。
「世の中は不公平なんですよ、何から何まで……だからね、ヨモギさんも早くそれに慣れないと、生きてなんていられませんよ」。…………
珈琲メーカーが、背後に蓄えた水を使いきって、ボボボっと音をたて始めた。
昼からまだまだ暑くなると天気予報が言っていた。そしてついさっき、岐阜県下呂市で41度を記録したらしい。熊谷に続き、今年二度目だという。 2018年8月20日 山口にて
おしまい