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エッセイ えべっさん
中学の体育の授業で1500m走の計測があった。不幸にも、私はその日に限って運動靴(トレーニングシューズ)を忘れた。
サッカー部の部室に常備していたつもりが、ロッカーの中にはなぜか底に6本のポイントをはめ込んだサッカー専用のスパイクしか見当たらない。
数日前、一度洗って乾かそうと家へ持ち帰ったことを思い出して悔やんだ。
その日通学のために履いていったのはスエードのハーフブーツ。私は特に足が小さかったので、一応リーガルだが実はレディースだった。
それでもとりあえず、かかとが低いのと靴底が柔らかいゴム素材だったことが不幸中の幸い……かと思ったが、いざグランドに立つと、やっぱり走るのには厄介である。
それで、いっそのこと裸足で走ることにしたのだが、出走の寸前に教師から、怪我をする可能性があるという理由で、たかぼん(高野先生)からキツく咎められ、あえなく断念した。
校舎から歩いておよそ10分の場所に、中高大が共に使用する新たに造成中の通称《新グラ》と呼ばれる広大なグラウンドがあった。内側はセイタカアワダチソウが繁ったままで地面も荒れ放題、球技をやるにはちょっと不具合だったが、外側には赤土の立派な400mトラックが完成していた。
1500mだから、通常のスタート位置からきっちり100m先に並び、一斉にスタートしてトラックを反時計回りに4周回ることになる。
スタートの合図が鳴った。
どうせ体育の授業だし、部活の試合のような真剣勝負ではないのだからと自分を慰め、ペタペタと適当に走り出した。
それでも基本的に走ることが嫌いではない私は、気軽なまま徐々にペースをあげた。どうせ私がクラスで一番なのは変わりようがないのだ。
ゴールでは全員のタイムを記録するために教師が名前とタイムを読み上げる。どうでもいいが成績にも影響するらしい。
私のタイムは、5分01秒だった。タイムを聞いた瞬間に激しく後悔した。真面目に走っていたら4分台で走れたに違いない。5分01秒と4分59秒とは、わずか2秒でも大違いである。
せめてこの靴でさえなかったら……もちろんすべては後の祭りだった。
1学年4クラス、180人強の生徒がその日のうちにそれぞれの体育の授業ですべて走り終え、タイムが出揃った。
その結果、私がクラスの枠を超えて同学年で実質トップだった。
実質というには訳がある。実は正確には私は2位だったのだ。
同学年に、後に高校総体、いわゆるインターハイの5000mで、2年連続日本一になったバケモノがいたからだ。
この規格外な男はしばし傍に置いておき、問題は私の次の人物である。
タイムは私とわずか1秒違いの、5分02秒。岡本○也、ニックネームは《えべっさん》。
《えべっさん》とは、言うまでもなく七福神のレギュラーメンバーで商売繁盛の神様、恵比寿天のことである。
命名の由来は、少し太めの体格と丸みを帯びた独特のえびす顔にあった。
さて《えべっさん》というニックネームは、すでに「さん」という敬称を含有している点で特殊性を有する。友達どうしにさん付けはおかしいので、しぜんと「さん」が省かれ、岡本○也は生涯、同窓生から「えべ」と呼ばれるようになった。
えべっさんは、中学の時は私と同じサッカー部に所属した。
ある日、部室で着替えながら雑談をしている時に、西ドイツ代表チームの主将"フランツ・ベッケンバウアー"のことを、"ゼッケンナンバー"だと思い込んでいたことが発覚して、それが全校に拡散し、一躍お笑いのスターになった過去がある。
余談だがこの"思い違いの発覚事件"は、木村の「愛のリコーダ」(愛のコリーダ)と、中村の「ジャカルタの目」(ジャッカルの日)と並んで、三大誤植として我々の歴史に名を残している。
そんなやや間が抜けた"えべっさん"だったが、関西学院の中学部から高等部、大学とまぎれもなく優秀な成績で進み、部活はグリークラブで合唱を本格的にやり、超一流商社に就職を果たし、その後一度も狂うことなく34年間に渡りビジネスマンとして模範的な社会人を営んできたのであるから立派としか言いようがない。
かたや私は、えべっさんと一緒だったのは高等部の卒業式までで、エスカレーターであがれるはずの大学推薦を成績不良で取り消され、そのあとは食パンに生えたカビそっくりな彩豊かな社会を低空飛行で転戦し、ジプシーのように歌い踊り、その日暮らしの反復の果てに霞を食う怪しい……いつ墜落してもおかしくない、糸が切れた凧かティッシュで折った紙飛行機のような人生を歩んできたのであるから、まさしく二人は陰と陽、大通りと路地の抜け道、新幹線と山口線、そしておそらく行き着く先は天国と地獄に違いない。
2016年の師走、その二人が首都東京で再会したのである。共に56歳の冬であった。
当然、私はともかく、相手は立派な大人であるのだから、さすがに今となっては「えべ」などと呼び捨てるわけにはいかない。
浜離宮朝日ホールで行われるジャズコンサートの関係者向けの招待券を数枚私が持っていたので、数日前に東京在住の同級生にグループメールを使って声をかけたのがきっかけだった。
コンサートは満員でほぼ定刻に始まり、途中休憩になった。
右隣の席のえべっさんが私の右耳にささやいた。
「終わったら、メシいくやろ?」
笑顔で答える。
「いこいこ、このへんで、どっか知ってるとこある?」
「あるよ、仕事で接待する機会が多いからな……何が食いたい?」
「なんでもええよ、最近デュエットしてるから、量はいらん」
「それも言うなら、ダイエットやろ」
やがて2部が始まり、長い拍手がわいて短いアンコールがあり、コンサートは暖かく終了した。
えべっさんと反対側の左方向の席に、これも私が招待していた、ひとまわり以上若い世代のシンガー・ソング・ライターの島崎智子嬢が、これまたシンガー・ソング・ライターの夫と連れ添ってアンコールの余韻に浸っていたので、当然のように誘った。
「せっかくやから、一緒に飯いこうや」
「いいですね」
私はえべっさんを振り返り、
「一緒に連れて行ってええやろ?」
えべっさんはえびす顔で、
「もちろん、それで何がええ? 牛タンにしよか、新橋に美味い店があるんよ、ここからも近いし」
「ほな、それで」
すると先ほどの島崎智子嬢が、そそそっと私のそばに寄ってきて
「わたしきょう2千円しか財布に入ってないから、あんまり高いとこは困るねん……」と小声で言うので、
「何をおっしゃるウサギさん……君らみたいな将来がある若い2人に、きょうは一銭も払わせへんよ、安心して大型タンカーに乗った気分で、普段は口にはいらへん美味いもんをたらふく食わせてもらおうや、あのお方に」と、なめらかな口調で言いながらお嬢の肩を両手でポンと叩いた。
「えっ、マジですか! カンゲキ!」
島崎智子嬢は満面の笑みで心の底から感激している。
この裏表のない素直な表現は決してお金持ちには出来ない芸当であるから、私の気分はさらに上向く。
その直後に、そこまでのやりとりを一切知らないまま、もう一人の友人、薬害の専門家である花井十伍が少し離れた距離から歩み寄ってきて私に、
「研ちゃん、久しぶりに会ったんだから、このあと飯食いに行こうよ」
と誘ってきたので、もちろん同意。
すぐさま、どこに食べにいくかと聞くから、またまた後ろを振り返り、
「ここのえべっさんにすべて一任してある。このえべっさんはこう見えてもワシの中学からの同級生やねん。仕事でタンカー売ったりもしてるねん」と自慢するとえべっさんが、
「おいおい」と、とがめながらも
「まあ、まんざら嘘ではないけど」。
島崎智子嬢が、
「ほんまに大船やったんや」とつぶやき、花井が
「ボク、クルマだよ」。
私が「どこにとめたん?」
「路駐」。
「さすが」。
「だって公安委員会がいいって言ったんだもん」。
花井は薬害エイズで身障者用の駐禁免罪符のお札を持っているから都会の夜の移動においては実に頼もしい。
「何人乗れるよ?」
「5人」
「あつらえたようにピッタリやな」
それからえべっさんがいつのまにかきっちりと予約していた店にクルマをのりつけ、確かに美味い、何よりも分厚い牛タンを食し、キムチをおかわりして、ゴマの葉であとの肉を巻き、ビビンバ、クッパ、冷麺……全部えべっさんが一品ずつ説明しながら、トングを器用に操り次々と肉を焼いて全員の小皿に配ってくれたのだった。
さて、いよいよ恐怖のお勘定が近付くと、まだまだ会話がはずむ中、えべっさんが、まるでトイレに立つかのごとく自然に支払いを済ませた。
店から出て、さすがに私一人ならまだいいのだが、あとの3人はえべっさんとは無関係で、会うのも今日が初めてであるのだから。
「えべっさん……ワシ、とりあえず一万円だけ出すわ」と、オーバーの右ポケットから二つ折りの財布をとりだすと、えべっさんがえびす顔で、
「ええよええよ、カードで支払ったから、それより久しぶりに同級生に会えたんやし、そのうえ普段はめったなことでは出会えない、自分と違う世界を生きてる若いミュージシャンとも深くて有意義な楽しい話が出来たし」
「いや、それでも……牛丼ならともかくさすがにここはマズイ……いや味やないで、ウマすぎたからマズイ。わしが勝手に調子乗って3人を誘ったんやから、アイツらだってかえって気にするよ」
「そうか……そうしたら、とりあえず久保と二人でワリカンにしたと、彼らには言うといてくれや」
「それがな、珍しいことに、たまたま今日に限って、しこたま現金持ってるねん」
「それならまたいつか必ず山口に遊びにいくから、その時に、奢ってくれや」
「わかった、そこまで言うのなら、その時まで借りとくわ、山口に来たら力いっぱい美味い魚を食わすわ、アジやイカの刺身を吐くまで食わしたる、のどぐろも焼いたる」
「吐きはせんけどな」
「よし、決めた。こうなれば萩の明己悟(アミーゴ)やな」
「見た見た、読んだよ、フェイスブックで、ええなぁ、是非ともあの店には行ってみたいよな」
ちなみに萩の明己悟のランチタイムは、ウニも乗った海鮮ちらしと吸い物と漬物の定食や、刺身定食、握り寿し定食などが、わずか300円という、多面的に怪しい奇跡的な穴場なのである。
そのアミーゴで私に発生するであろう支払い予定額と、今しがたえべっさんがカードで実行した支払い金額とは、えべっさんの頭の中ではあくまで相対的にサイズが均等に変換され、天秤ばかりはどちらへも傾いていないに違いなかった。
えべっさんは、この瞬間もえびす顔だった。心なしか後光がさし、今まで気がつかなかった、竿と鯛が見えた気がしたから不思議である。
たしかに40年ほど前の関西学院中学部で、私とえべっさんは、1秒の差であった。
西宮市上ヶ原の同じキャンパスで、同じ空気を吸い、同じポプラ並木を見上げ、北原白秋作詞・山田耕筰作曲の校歌《空の翼》を歌い、同じ新グラウンドで1500mを走ったのだった。
人生の岐路はどこにあったのだろうか?
なぜこんなにも差が開いたのだろうか?
どうして私は、この歳になっても「不良」が抜けないのだろうか?
いつになれば、子供から大人に進化できるのであろうか?
私の方が1秒勝っていたのは歴史的事実であるのに……。
最後に1500m走の話に戻る。
くどいようだが、私のタイムは5分01秒。えべっさんが1秒遅れの5分02秒……そう、さっき傍へ置いたバケモノ……名を合田(ごうだ)という……は、その時には興味がなかったので正確には記憶していないが、あとで本人に聞いたら、4分ちょうどだったそうだ。
だから、私が学年で1番、えべっさんが2番で、他の学校の奴には誰にも文句は言わせない。