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葬儀の涙

 私が高校生の頃、久保家の本来の本籍地である和歌山で葬儀があり、私は父の名代で、伯父叔母と共にそれに出席しました。

 久保家の元々の本籍は龍神村なのですが、祖父が戦争中、子供たちが徴兵されて出征する時の不便さを懸念し…(本籍地の役場に出頭する義務があったが、当時龍神村には和歌山市内からバスも通っていなかった)…嫌々、尼崎市の西長洲に移したのです。

 和歌山に残っていた祖父以外の久保家の親族は、龍神村を出て和歌山市内に住んでいました。

 喪主は、久保利寸水。これを「トキオ」と読みます。

 トキオおじさんは、シベリア帰りで、私の祖父、瀧三郎の兄の子…つまり、祖父の甥っ子になるので、私の父からすれば、かなり歳上の従兄弟ということになります。

 そのトキオおじさんの顔は、仏壇に飾ってある祖父の顔とまったく同じでした。

 亡くなったのは、そのトキオおじさんの母。つまり、私の祖父の兄の嫁。明治生まれの人でした。

 トキオおじさんは、私に、遠くからの出席を心からねぎらってくれましたが、実の母親が亡くなったにもかかわらず、なぜかまったく悲しそうにしていませんでした。

 その理由を本人にたずねると、

「そんなもん、誰かていつかは死ぬよし」(よし、は方言)
 とか、
「お袋みたいなええかげんな人間は、あっちに行ったかって、なんとかやりよるから、心配はいらんもし」(もし、は方言)ってな感じでした。

 トキオおじさんの家は不動産業も営み、そこそこ裕福だったようで、市会議員なんかも来て、相当規模が大きい葬儀でした。

 葬儀が始まる寸前に、やって来た3人の僧侶のリーダー格に、トキオおじさんが急遽、何やら真剣に打ち合わせをしていました。
 時折僧侶が、首をかしげたり、念押したりしていたので、あとで私がトキオおじさんにたずねると、驚愕の事実が発覚しました。

 なんと、お布施を弾むかわりに、1番短いお経にしてくれ、と、頼んだと言うではありませんか?

 しかも、誰も知らんお経を長々読まれても、オマエらが間違えてもわからんから、皆がなんとなく馴染みのある般若心経一本で頼むわ、と命じたそうです。

 なんたるバチあたり且つ不謹慎。

 それで実際に、あっというまにお経が終わりました。

「あのな、けんちゃん。なんでか知らんけどな、久保の家の葬式でな、身内が泣いたっちゅうのんは、見たことない。
 たぶんこれは、血ぃやと思うなあ、別にワシもお袋と仲悪かったわけやないからな……そら、死んだんは悲しいはずなんやで。
 けんちゃんも、もっと大人になって、いつかは、クニ婆さんや、文雄や治司らの葬式で、たぶんおんなじことを体験するはずや。けんちゃんも龍神村の久保の血ぃをしっかりひいとるさかいにな、ええ悪いは別にして」

 振り返るに、その後の久保側の親族の葬儀…一度も泣いた人を見ませんでした。

 現に、直近、実父治司を火葬場で見送った、この私も……。

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