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ある昔話

むかしむかし、あるところに、物理世界の基底にある量子的重ね合わせ状態がありました。
この重ね合わせ状態はあらゆる状態が重なり合っており、この重ね合わせ状態自体は「存在」というカテゴリーに属しません。よって、「なぜ最初にそれが存在したのか」と問うことは意味をなしません。

さて、重ね合わせ状態はあらゆる状態をとり得ますから、その中にはごくごく稀に、十分に低エントロピーなパターンが生じることもありました。
そのような低エントロピーなパターンは熱統計力学の法則に従ってすぐに散逸しますが、その過程においてマクロレベルで様々なパターンが生じ得たのでした。ある人達はこれを「ビッグバン」と呼ぶそうです。

ミクロレベルでみればあらゆる状態が重なり合っているだけですが、これをマクロレベルから眺めてみると、そこには重なり合いが平均化されて様々なパターンが現れ出てくる可能性があるようです。これをある人は「存在」と呼ぶことにしました。そしてそのようなものの総体は、「宇宙」と呼ばれました。
ただ、そのようなマクロのパターンは、そもそもマクロから「眺める人」がいないため、この段階では純粋に可能性的なものに留まっていました。

ここで、重なり合い状態からある状態が「選択」されることは、みんなに公開されていることではなく、私秘性があるものでした。ある状態が「選択」されることは、「○○にとって」、としてしか現すことができません。
ある状態が選択されることは、系Aが系Bに対して情報を伝達することを意味します。このような「私秘的な情報の伝達」によって生じるものを、ある人は「クオリア」と名づけることにしました。また、「選択」のことを、一般に「観測」と呼ぶことにしました。

ここで、ある量子系をマクロレベルで眺める事は、環境との相互作用によって系が平均化され、古典系として現すことができることを意味します。
このような平均化は環境との無数の相互作用、すなわち無数の小さな「観測」によって生じます。これをある人たちは「量子デコヒーレンス」と呼びました。

さて、ある日、このようなミクロからマクロへの写像を、より構造化された形で行うことの出来る器官が、自然界に登場しました。それは「脳」と呼ばれる器官でした。
脳はミクロ系を秩序だった、構造化された形でマクロレベルに写しだします。これにより、自然界のあらゆる「存在」は構造化された、実に多様な形で在ることができるようになりました。
ここに、世界をマクロから眺める視点がこの世界に初めて誕生し、存在物は可能性的なものから実在的なものへと生まれ変わりました。まさに「存在の夜明け」です。

さらにある日、この「脳」という器官は、「私」という不思議なものを生みだすようになりました。
そして、「私」は「思考」という、これまた不思議な現象により、「なぜ私は私なのか」「なぜ何もないのではなく何かがあるのか」「宇宙はどのようにして生まれたのか」等々と、色々なことを考えるようになりました。
そしてその答えは、まさにこれまで述べてきたような「存在」のあり方にこそ核心があるのでした。

そんな中、ある日、「私」は「死」という、この世から存在しなくなる特殊な過程を経ることになりました。
「私」が「死」によってこの世から消え去ると、「私」によってマクロレベルに写し出されていたあらゆる「存在」は消滅し、ただ、ミクロの重ね合わせ状態だけが残りました。
やがて時は過ぎ、低エントロピーだったミクロの状態は熱力学の法則に従って高エントロピー状態に均一化され、すべての「存在」の可能性は失われました。ある人たちはこの状態を「宇宙の熱的死」と呼ぶそうです。

そして、すべては最初の状態に戻ったわけですが、やはり再び十分低エントロピーなパターンが偶発的に生じ、そこから宇宙が生まれ出るということが起ころうとしているようです。

このように、万物は現れては消滅するを繰り返しながら、永遠に輪廻を続けていくのでした。

おしまい

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