約束 [第30話]
「泣かない約束などしていませんでした。だから、ボクはキミの前で泣いても仕方がないよね」
そう私は何度も何度も言ったのだろうか。そして、どうしても連れて帰りたいのだ、と言って私は駄々をこねていたに違いない。あの子はそれをどうやって宥めていたのか、私の記憶に残るはずもなく、お姉さんのように優しく、ときには厳しく私を叱っていたのだろう。
「しっかりしなさい。男の子なんだから」
きっと、そう、言っていたに違いない。
【鶴さん】というこのお話を書き始めたときから、私の頭の中にはひとつのシーンがありました。
都会の高層ビル。…つまりそれは私にとって新宿のビル群でした。二十数年の歳月のうちに都心の風景も変わってゆくということはTVのニュースなどを見ていればわかります。しかし、仕事でときどき東京に足を運び、列車の窓から見る街の様子は、名前が東京というだけで、もはや私の知っている東京とは別のものとなっているようでした。
いまさら東京に戻るつもりはないし、そういう街で暮らしたいと思うこともない。それは、東京という街を否定しているのではなく、あの時代に生きてきて、私という人物の骨身となった一部がこの都会で熟成されているときに、多かれ少なかれ私に刺激をくれた街の面影を、今の体の中で大事に持ちつづけたいと思うのだろう。
講義の合間に散策に出かけた神保町。クラブのランニングで大声を上げて走った北の丸公園。神田川を下る船を見ながら欄干に凭れて青春論について1時間も2時間も話した午後。ちょうど今の季節なら、見事な桜を咲かせた千鳥が淵。私の記憶の中にあるものは簡単には消せない。でもきっとそのうち消えてしまうのだ。
鎌倉の鶴岡八幡宮の鳥居の色も、雨の参道も、あのときの春の香りも、…すべては儚いものなのだ。
一日中、やむことがなかった雨を私は決して恨んだりはしなかった。東京を離れるのにふさわしい贈り物だったのかも知れない。
(続く)