終章 その3  [第60話]

「アセチルコリンっていうのよ。神経伝達物質なの。そこから名前を取って、喫茶コリンと呼んでいたの」

鶴さんは社交的で明るく、学生時代にも人付き合いが広かった。バスケットボールに打ち込みながら、遠征先からたびたび便りをくれた。その彼女が下宿に友だちを集めてお茶をするとき、そこを喫茶コリンと呼んだという。

コリンの話は、鶴さんシリーズで何度も書いてしまった。今、終章を書き終えようとしているときにも、再び「コリン」という名前が蘇えってくる。

楽しそうに命名の由来を話しているのを見てお茶目な子だなと感じた。一度だけ「コリン」と聞いただけなのに一度も忘れることはなかった。

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或る日、鶴さんのところに一通のメールが届いた。そのメールは見覚えの無い人からであったが、少し読み進むと話の筋が見えてきた。メールの送信先はバスケットボールのOB会事務局からだった。そしてそこには、次のように書いてあった。

あなたのお友だちが、あなたおことをお探しです。OB会の事務局に電子メールを寄せられましたので、転送させていただきます。内容はご当人から預かったものをそのままお送りします。

このあとに事務局宛てに出された手紙が付いていた。何故、今、あなたを探しているのか。何処にいて何をしているのか。どんな暮らしをしているのか。予期せぬメールであったが、もしかしたら心のどこかで期待をしていたかもしれない。そんな複雑な気持ちで目を通す。

メールに目を通しながら、あれから20年の間にあった出来事を、鶴さんは思い出していた。

ねこ君か。元気にしているのかな。

そうねえ、郡山市の薬局で、仕事が始まる前にやって来て、青森まで行ってきたんだっていう話をしてくれたのよね。薬局を替わったばかりだったしお仕事前だったので、じゃあね、また手紙を書くから、って言ってそそくさと別れてしまったわね。

あれから何度か手紙を書いたけど、ねこ君、私の手紙に返事をくれたっけ?

母が脳梗塞で倒れてしまい自由が利かなくなった身体なので、私が傍に居てあげる決心をしました、って書いたのよ。ねこ君は結婚するって言ってたから、忙しくて手紙を暮れなかったんだろうな。そう思って私もあれから書かなくなったのかも。

私には私の人生があって、貴方には貴方の人生がある。貴方は自分でその道を開いてゆかねばならない使命を持って生まれてきたの。立派な技術者になって夢を叶えるんだって口癖のように話してくれたわね。そのために京都に行くんでしょ。私も蔭ながら応援するから。そのことは、あの晩、東京で話したわ。何を今更、弱音を吐いているのよ。手紙なんかよこして。私は今、返事なんか出さないわよ。私たち何処にいてもいいじゃない。私のこの気持ちは届くはずよ。

こんなふうに鶴さんが思ったかどうかは定かではない。

アルプスの少女ハイジが高原をかけているアニメを見るたびに鶴さんのことを思い出したときがあった。優しく甘い雰囲気を放ちながらも、心は厳しい人だった。医者だった父を子どものころに無くし、決して豊かではない暮らしの中で育ってきたという。「私は私を育ててくれた母を最期まで面倒みます」、と言い切った彼女の心の奥深くには、私では分かり得ない厳しい彼女の人生の決意が秘められていたのだろう。

メールが届いたからといっておいそれと返事を出すような人ではないことは簡単に想像がつく。そうか、(ねこ君には)子どもができて幸せに暮らしているんだ、と頷いたとしても、そこまでだ。鶴さんは自分の人生を自分で描いたように歩んでゆく人であるから、「AはBのようになるべきなんだよ、というあの口調で、きっと、私たちはこのままで良いんだ、と言い切るに違いない。

鶴さんはピリオドも打たない、返事も出さない。
私はピリオドを打とうとしない。返事を期待しない。

千の風になって、という歌がヒットした。鶴さんは歌っただろうか。ふとそう思った。

続く