今年を振り返る ー 二月の日記から 抜粋

今年を振り返る ー 二月の日記から 抜粋

二月の日記から 抜粋
https://wahakuma2.wordpress.com/2022/02/


🍏🍏🍏

2022年2月4日
二月の初めに考える ー 節分篇 裏窓から


正月が過ぎて間も無く過ぎてから椎間板ヘルニアが悪化し
坐骨神経痛(腰痛)を発症したまま二月を迎えた

悠ちゃんは 誕生日を三月に控えて ポケモンのぬいぐるみを待っているのだそうです

向田邦子のベストエッセイを読んでいて『板前志願』という篇があり 放送作家にならなかったら「板前さん」になりたかったというようなことを書いている
エッセイを書いても天才ぶりを発揮しているのだが 僕の場合はどうだったのかと考えてみた

小学校の卒業の文集で「大人になったらアナウンサーになりたい」と書いたことを 僕が大人になってからも父は言い続けた

「おまえは大人になったらアナウンサーになるというたけど、なれなかったなあ」と残念がった

いつまでも言い続けていたのは自分のことのように悔しかったのだろう

父は夢を追い続ける人だった

数学がクラスでビリであったのに理系に進学することを決意して、その当時誰もが目指す最高峰学部であった「電気通信工学」「応用物理学」などという学科を受けた

十八歳で将来を決めようとするのは無謀だ

その頃の受験情報や大学情報などはあてにならないし、現在のようには充実していない中で決定した電気通信工学を専攻して大学を卒業するが、ずっと理系は得意ではないままだった

コンピュータが急激に身近になってきた時代だったので、人のやらないことをすれば目立たずに済むと思い情報科学の分野にも手を染めた

医用生体工学にも首を突っ込んだ

。。

向田さんのエッセイを読みながら、自分と比較するなんてのは愚かな凡人のすることだが、よくぞ才能もないのに世渡りが出来たなあと感心をしている



平成最後の大晦日の日記に

(わたしの)

人生というドラマにスポットライトなどなかった

いや

スポットライトなど
不要だった
というのが正しいのだろう

静かに暮れ行く
平成最後の師走に
静かにあらゆることを振り返ろう

と書いている

「いくつで死ぬか知らないが、死ぬまで言いたいことを言い、やりたいことをやって人から憎まれて死にたい」

芥川賞作家で政治家としても知られる石原慎太郎さんが二月一日 亡くなった
八十九歳だった

最近では「田中角栄」を書いた『天才』を読んだ
石原慎太郎って人は イデオロギーで猛反発をして 大嫌いだと思い続けてきたが
それは政治的な話をするときだけの話で

人としては
全く嫌いになれない側面を持ち
人柄でも とても好感を持てる人だった

政治家として一票を投じる事はないにしても 作品はおよそ目を通し
生き方にも憧れのようなものを感じている

。。

『憎まれて死にたい』

誰でも言える言葉であり
そう簡単に言える言葉でもない
考えて出てくる言葉ではなく
着飾っていうものでもなかろう

二月一日の天声人語が
『青年期から死まで、その一挙手一投足にスポットライトが当たり続けた人だった』
と最後に書いている

スポットライトか・・・と ため息をついた

🍏🍏🍏
🍏🍏🍏

わはく(秘)伝
二月十九日
雨水篇を書こうと思う
ペンが進まない

困ったものだ



二月十九日の新聞にあった記事を丸ごとパクろう


*ーーー>
(多事奏論)
19歳のあなたへ 失敗する権利、人間にはある 近藤康太郎



偽善的な「寄り添い文体」が大嫌いだ。いままで使ったことはない。でも、今日はどうしても書きたくなった。大学入学共通テストで、世界史の問題をスマホで撮り、外部に流出させた、19歳のあなたへ。

行きたい大学がある。将来の夢もある。自分なりに努力もしてきた。それでも成績が上がらない。そもそも遠い異国の偉人の名前や年代を丸暗記して、なんの役に立つのか。学校の先生も教えてくれない――。

そう思う受験生は多いだろう。分かる。痛いコスプレしたおっさんにも、昔、学生時代があったんです。世界史は好きだったけど、たとえば数学は、自分がなにをしているのか、さっぱり分からない。

ところが、もう7年になる習慣ですが、わたしは明け方に起きると、まず、高校数学の教科書を開きます(「武藤徹の高校数学読本」全6巻)。いちど通読しても分からない。いまは2周目、第2巻の苦手な幾何で四苦八苦しています。数式や図をノートに写し、参考書やネットを引きつつ、完全に理解しようとしている。今朝は、2次式の係数による2次曲線の分類でした。

     *

わたしはライターで、百姓、猟師でもあります。数学をやると、文章がうまくなるのか、米が育つのか、下手な鉄砲が鴨(かも)に当たるのか?

そう聞かれると、答えに窮しますね。ただ、勉強していると、そういう陰影のない質問をしなくなるんです。勉強すること、それじたいが楽しみになるから。

言い方を変えましょうか。勉強にはふたつの特徴があるんです。その一。勉強には終わりがない。一生続く。だから、観念するしかない。だいたい、ある期間やればやめていい“勉強”なんて、勉強じゃないです。世界を、人間を、馬鹿にしてます。勉強とは、カルティベート(耕作、教養)された大人になることです。

その二。勉強は、勉強しているその当座、なんの役に立つのかさっぱり分からないんです。ずいぶんたってから思い出す。

田んぼを耕していると、積分のことを考えます。人類はなぜ積分の発明にたどりついたのか。田畑の面積を正確に計算する必要があったから。権力者が必要としたからです。米や麦の生産が安定し、人が人を支配する権力関係は誕生した。だから、農耕こそ格差の根源とも言えるんです。

わたしは猟師で、獲物に弾を撃つとき、ベクトルのことを思い出す。弾道の計算ですからね。ベクトル空間はフランスの数学者・哲学者デカルトによります。ところでなぜヨーロッパで科学が生まれたか。貧しかったからです。貧しいから、大砲で外部に戦争をしかけた。戦争は、科学の必要を生む。争いこそ科学の母だという、すこぶるやっかいな事実に思いが至ります。

そうした気付きは、わたしのライター人生に、直接的に「役立つ」ものでした。

     *

そして、勉強しない人間は必ずむごいエゴイストです。ちょっとばかり成功すると、「自分は特別」と愚かにも思い込む。

でも勉強する人は知っている。人間なんて、どっこいどっこいだ。取り巻きを1万人以上も集めて花見する権力者も、ばくだいなエネルギーを浪費して家族連れで宇宙旅行する大金持ちも、べつにえらくない。自分も他人も、大した存在じゃない。

つまり、勉強するのは「人にやさしく」(ザ・ブルーハーツ)なるためなんです。

山奥で猟をしてるとよく分かる。けものは失敗できない生き物です。逃げ方をしくじると、天敵に食われる。猟師に撃たれる。失敗は、死に直結する。

でも、人間は一度過ちを犯しても、やり直せるんです。長年月かけて、そういう社会を、システムを、築いてきたんです。それこそが、人類の勉強の成果なんです。

人間には、失敗する権利がある。

もう一回、がんばりましょうよ。 (天草支局長)

<ーーー*

似たようなことを考えている人はいるのね