いつもそこに夕焼けがあった  [第51話]

「私は今日まで生きてみました」と吉田拓郎が振り返り「私には私の生き方がある/それはおそらく自分というものを/知ることから始まるものでしょう」と叫びながら歌っていたのが記憶にしっかりと残る時代だった。

キャンパスの片隅で反体制を熱く語り合い、恋人像についてお互いをさらけ出しあいながら、自らそれを青春とは一切呼ばずに、またそういう意識を持つこともなく日々を送っていた。満たされないものを胸に秘め、不満を握りつぶし、正義を発散して生きていた。いつの夜も、思う存分を語り尽くして夜を迎えた。

二十歳代のころは、あんなにも情熱的であったのだ。貧しかったからこそ情熱に満ちていた。

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もしも、ケータイ電話というものがあったならば、小樽駅で手紙をポストに入れるようなことはなかっただろう。もしも、メールがあったら、私たちは名前以上の何を知らせあうこともなく、単なる旅の行きずりの人で終わったのだろう。

遠く離れていても、一度も電話を掛けることなく、ただひたすら手紙を綴った日々。封筒が膨れ上がるのを嫌がってエアーメール用の便箋を愛用した。

後に、環七を飛ばせば30分で行けるようなところに住むようになっても手紙を出した。封書がミカン箱の大きさのダンボール箱から溢れるほどになっても、手紙は続いていた。

いつも、私の前には赤く染まる大空があった。

積丹半島の先端へと行ける遊歩道が始まる余別という街の、バスの終着駅から、最終便が噴煙を残し去ってしまう姿を見つめながら、「ヒッチハイクで帰るから」と出任せを言った。

バス停前の売店からは、真っ赤な太陽が見えたはずだ。それが次第に赤みを帯び、人影のない店内と彼女の顔を真っ赤に染めてゆく。

私は小樽へと、まだ一度も経験をしたことのないヒッチハイクという荒技で、帰らねばならない。

不安と熱情で揺さぶられている私の心とは関係なく、真っ赤な夕焼けが私たち二人を赤く染めていた。そんな別れから始まった私たちの数年間だった。

いつか、どこかで、ふと思いついた短い詩。私だけにしかワカラナイかも知れないけど・・・・

 「サヨナラと三回ゆうたら夕焼け」

いつも、そこには、夕焼けがあった。

(続く)