それは広くて深い湖の底に沈んだ泥に埋もれた宝石箱を探すようなものだ  [第62話]

鶴さんを見つけたい。でも、それは広くて深い湖の底に沈んだ泥に埋もれた宝石箱を探すようなものだ。なのに、そんな想いが湧き上がってくるときは、少し酔っているときではなく、珍しく深夜に、静かに椅子に座ってペンを持ったときであったりする。

ああ、いやだ。叶うことのない願望を追うのは嫌だ。メソメソした自分が強烈に嫌いになる。(でも、いたわってやりたくもなる)

私は嫌なことを想いながら酒は飲まないので、鶴さんの夢を追いながらマイナスなことは考えない。全てプラスに変えて酒を飲む。

そういえば、いつからか、酔わなくなってしまった自分が寂しい。酔いたいことだってあるさ、ねえ。

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大学のクラブ活動OBの事務局さんの計らいで、私のメールが鶴さんの元へと転送されるという、あの話のときはまさに目の前がバラ色だった。ほんとうの喜びを得たときというのは誰にも打ち明けることの出来ないものなのだ、ということを知ったのだった。

だから、あのときは、きっときっと私あてに返事のメールか手紙が届くはずだ、と、そんな揺るぎない確信を持った私であったが…、何の連絡もなく1年、2年と時間は過ぎてきた。

事務局さんがあれほどまでに快く引き受けてくださったメール転送であったのだから、まさか転送が上手く行かなかったとか、転送を忘れていたとか、(失礼かもしれないが、)あれは返事だけで実はプライベートなことに事務局は関わってはいけないというルールがあって転送作業がまったくなされていなかった、とかは考えてはいけないのだ。それでも、考えてしまう。

正直、今でも、信じがたいものがある。鶴さんが私のメールを見て理由もなくそのまま放置することは、間違いなく有り得ないと思う。だったら、メールが届かなかった、ということになるのだから。

ほんとうに鶴さんは、自分の意志で私への返事をやめてしまったのだろうか。

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いつか、銀座の街のどこかを歩きながら、
「一番星だ。あれは願い星って言うんだよ。それで、その隣の二番目の星は叶え星なの」
と話してくれたのを思い出す。

あれも秋の夕暮れだったかも知れない。きっと、今も、鶴さんは広い日本のどこかで、私が見ている真っ赤な夕日と同じ夕日に顔を赤く染めて空を見上げているのだろう。この「鶴さん」シリーズを書き始めた理由のひとつは、この広い世界のどこかで、もしかしたら鶴さんがこのブログを読んでいたら、このブログが目にとまったら、鶴さんは私に必ず手紙をくれるだろう。

もしもこの「鶴さん」シリーズが本になって出版されて、書店の棚に積まれたら、私のことを思い出してくれるだろう。

そう思って書き始めた。しかし、万事休すかな。