『正しい人間』 〜フランス映画(MyFrenchFilmFestival)長編19番勝負 2/19〜
カーラジオを盗もうとしている子供を注意したことから暴行に巻き込まれたエディ、数日前仕事のセミナーで出会ったアハメッドを主犯格と思い込むが·····ポスト資本主義世界の救いなき『タクシー・ドライバー』。
加害者も被害者も本当には存在せず、よほどの金と権力がない限りそのコスプレを死ぬまで演じさせられるに過ぎないおしくらまんじゅう社会であることは日本もフランスも同断とはいえ、その悲惨なモノマネショーに対する精一杯の皮肉としてあえてここで加害者と被害者と呼んでみることにする二人の男性は、いずれ劣らずダメダメなクソ野郎だがそれなりに一生懸命生きた結果運命が交錯し、そもそも“普通の人”というのは悪人でも善人でもなく、時折ハメを外したり間違えたり暴走したり夢を見たり愛を語ったりするデタラメな生き物なのであって、例えば是枝裕和作品からどうしても拭えない違和感はそこで、テーマを優先するあまり普通の人々のデタラメっぷりをナメている・矮小化し過ぎているきらいがあり、『そして父になる』のクソほど差別主義的なエリートサラリーマンのキャスティングが、“あの福山雅治が信じられないほど福山雅治っぽい役を演じる、つまり福山雅治が福山雅治本人のコスプレをする皮肉”ではなくマジなのだとしたら、まずもって感性を疑うし、その手の生真面目さはたやすくなんらかのイデオロギーと結びつくことを映画的にデタラメな想像力を信じる者として強く言っておきたいが、では、本作のあのラストシーンはどうなのだろう?
やはり一番の焦点は主人公が着用する射撃専用グラス、鏡や窓ガラスの曇りや反射をしつこいほど取り込んだカメラワークが示唆するものはきっと上記のごとき被害と加害の隣り合わせの二重性なのだろうが、最後の最後、あのグラスにはもはやなにものも映ってはいない·····従って実は、マジメや正しさに転向せずデタラメを貫き通すことこそが悲劇を回避する唯一の手段だったかもしれないのだ。
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