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2/5 『スケベジジイを成敗するオーシャンズ5』 〜『鑑定士と顔のない依頼人』爆笑解説ゲームブックside A〜

※ルールブック(あらすじ紹介など)


《 俗なる本物サイド  〜スケベジジイを成敗するオーシャンズ5〜 》


✨はじめに。立場を入れ替えると実は·····

『鑑定士と顔のない依頼人』(2013)はスケベジジイがハニートラップに引っかかって身ぐるみ剥がされるかわいそうなお話だ。イベットソンをはじめ、トムやフレッドその他はみな同じ詐欺グループの仲間であり、すべてはヴァージルが隠し持っている美術品を奪うための壮大な計画だったことが後半明かされる。気の毒といえば気の毒なオチだが、自業自得とも言える。残念ながら本作の主人公ヴァージルは、同情するにはあまりにイヤなやつなのだ。
傲慢で潔癖、おまけに金持ちの名士、豪邸でたった一人優雅な生活を送り、自分以外の人間を常に見下している。依頼人や同業の鑑定士、忠実な秘書に対してすら冷淡な姿勢を崩さないくらいだから、まして社会的地位の低い人間をおいてをや!特に、薄汚れた野良着を着てびっこを引いた人物、屋敷の管理人フレッドに対する振る舞いは目に余るほどだ。この粗野だが気のいい男の手に触れる際、ヴァージルはきまって手袋を着用し、それで間に合わぬ時にはハンカチを使用、けっして素手で触れようとはしない。あーやだやだ!ばっちいわ〜とばかり汚物を扱うような態度で接する鑑定士を、フレッドがこっそり睨みつけるのもむべなるかな。とりわけ、ヴァージルが彼を使用人のごとく扱い、荷物の運搬を言いつけたのち、弁解の言葉のひとつも口にするかと思いきやチップを与えてことを済まそうとする場面にはヒヤヒヤする。しばし呆然とその場に立ちつくし、去りゆく背中に「何様だよジジイ·····」とでも言いたげな視線を送るフレッドの姿には同情を禁じ得ない。
その鈍感ぶりもさることながら、一番の問題は、ヴァージルが自身の差別意識にまるで気付いていない点だろう。身分や階級差に対するステレオタイプな認識がごく自然な形で内面化されてしまっているようなのだ。もしかするとこれは、彼がひた隠しにしているコンプレックス、孤児院で育ったという貧しい出自が自尊心へと裏返った結果なのかもしれない。わが国においても、例えば中小企業の経営者などに見られがちなパターンだが、独力で現在の地位を勝ち取ったという自負が反転した結果、人情派で知られる人物が保守反動の差別主義者に転向してしまう例は少なくない。努力すればどんな人間でも成功を掴めるという信念が昂ずるあまり、その者が悲惨な境遇から抜け出せないのは努力を怠っているせいだ!という極端な認識に到達してしまうわけだ。
当初、“ヴァージル氏の代理人”と偽って屋敷に赴いたヴァージルに、フレッドは“同じ使用人”としての気苦労を語る。これに鑑定士はしばし沈黙し、当惑と軽蔑がないまぜになったような複雑な表情を浮かべる。この一瞬の場面からは、ヴァージルが現在の地位を築くまでの屈折した人格形成過程が透けて覗く。
とはいえ、以上はあくまで推測に過ぎず、客観的に見た場合、この老人が傲慢で鼻持ちならない差別主義者であることに変わりはない。まったく、こんなジジイは一刻も早く打倒されるべきだ!と思っていたら、のび太バリにメッタメッタのギッタギッタにやられるのだから愉快。挙句の果てが、誰がどう見てもムリ目な美女にうつつを抜かした結果、日頃から馬鹿にしている下級国民どもにまんまと騙され汚いボケ老人へと成り下がる始末。へっへーん、ざまあみろ!フレッドもさぞかし大笑いしていることだろう。
この通り立場を逆転してみるとわかりやすいが、実は本作は、社会のはみだし者たちが金と権力をほしいままにしている傲慢なエリートをあの手この手を使って騙し、その権威と財産を奪い返す、痛快なコンゲーム映画でもあるのだ。
奪い“返す”とわざわざ表記したのにはわけがある。オーシャンズ・シリーズに代表されるコンゲームものが爽快なのは、知略を尽くして悪党に立ち向かうハラハラドキドキの過程は言うに及ばず、そうしたテーマの根っこに、「すべての者に平等に分配されるべき富が少数の人間によって占有されている不当な現状を打破し、是正する」という大義名分が隠されているからなのだ。手段はともかく目的に正当性が認めなければ、観客が受け取る爽快感はたちまち減退する。ターゲットは、騙されて当然のイヤなやつであるべきなのだ。
コンゲームを構成するさまざまな要素の中から、こうしたキリスト教カトリック的な倫理観、あるいは共産主義的な革命理念を取り出してクローズアップする試みが、例えばポン・ジュノの諸作だと言える。自身もクリスチャンであり若かりし頃に左翼闘争に身を投じた経歴を持つ彼の映画は、持てる者と持たざる者の闘争を多様なレヴェルにおいて観察する実験だ。単なるモンスターホラーに留まらぬ底深さを有した『グエムル 漢江の怪物』は、人間と怪物の戦いに即して革命の栄光と挫折を描く作品であり、世界的なヒットを記録した『パラサイト』も、絶えざる階級闘争の一幕を戯画化したスラップスティックな風刺劇となっている。
とはいえ、本作においてポン・ジュノ作品のように騙す側の大義名分が暗示されることはない。また、詐欺被害者を主人公としたジャンルミステリーとしての構造上、騙される側の悲哀に焦点が当てられているため、オーシャンズ・シリーズのような騙す側の快感を味わうことは困難だろう。
だが、そうした要素は後景に退いているに過ぎず、消滅したわけではない。騙す側に大義名分を与えるターゲットの非道ぶり、ヴァージルの傍若無人なふるまいは、以下に見てきた通りさりげなくではあるが充分に描きこまれているからだ。さらに言えば、彼の罪は抽象的な次元に留まらない。通常のコンゲームにおける“お宝”、ヴァージルが隠し部屋に収蔵している大量の女性肖像画は、おそらくそのほとんどが不当な手段によって獲得されたものだ。大方ビリーをサクラに使って強引に競り落としたか、鑑定士としての権威を悪用して真物を贋作と偽り依頼人から巻き上げたものに違いない。つまり、紳士的な外面を装ったこの老人の財産は、度重なる詐欺行為によって奪取されたものなのだ!主人公ヴァージルは立派な悪党であり、社会的制裁を受けてしかるべき人物なのである。とすれば、これまで散々他人を騙して暴利を貪ってきた人間を騙し、被害者の財産を奪い“返した”とて、いったいその者になんの罪があろう!イベットソンやロバートは、ある意味で正当な裁きを下したわけである。
こうして詐欺被害者の名誉を回復した詐欺師たち(!)が、その後奪った美術品を正当な持ち主に返却したとは考えにくいが、ヴァージルの長年のオークションパートナーであるビリーが協力していた事実を思えば、その可能性もゼロとは言えまい。ビリーにとっての計画は、憎むべき友に対する復讐であったとともに、自らの罪をあがなう贖罪の行為であったかもしれないのだ。少なくとも美術品の一部を、ちょうどヴァージルに対して嫌がらせとして行ったごとく、元の持ち主にこっそり郵送した可能性は考えられる。
以上から、『鑑定士と顔のない依頼人』の中で現実に進行していた映画の内容が、ねずみ小僧たちによる痛快な復讐譚であったことは明らかだろう。ここに満を持して、『スケベジジイを成敗するオーシャンズ5』のキャストとスタッフたちを紹介しよう。
 

✨『スケベジジイを成敗するオーシャンズ5』キャスト&スタッフ


①ロバート
·····監督、脚本、演出、小道具、キャスティング、助演男優(修理工役)
あっぱれ!一人六役の大立ち回り!助演と小道具以外の役割は推測に過ぎないが、彼以上に頭が切れて女にモテるやつが背後に控えているとも思えない。壮大な計画を立案し、個性派揃いの俳優たちを采配した監督はロバートその人で間違いないだろう。車椅子に乗った本物のイベットソン嬢も、「優しくてハンサムな青年が“映画撮影のために”屋敷を訪れていた」旨を証言している。
心を許せる年若い友人兼恋愛マスターキャラはヴァージルを騙すための設定だろうが、それぞれにタイプの違う美女を自在に操っているところを見ると、実際にもかなりモテるに違いない。若くてハンサム、おまけに機械に強くて大金持ち(予定)なのだから当然だろう。いい年こいて童貞の潔癖ジジイとはわけが違う。
ロバートがヴァージルと知り合った時期が明かされないところが曲者で、これまた本物のイベットソン嬢の証言から察するに、彼は1年半前かそれより少し前からターゲットに接近し、「金目当てじゃない」誠実さをアピールして信頼を勝ち得たようだ。物語の鍵となる自動人形は、無論ヴォーカンソンのオートマタなどではなく、“映画”のために製作された小道具。どんなものでもたちどころに修復してしまう腕を持つ彼なら、それを一から作り出すことも容易だろう。自分で組み上げた装置を分解し、イベットソンに少しづつその部品をバラまかせる。そうしてヴァージルの気を引き、同時に自分への道筋を付ける。後は持ち込まれたパーツを元通りに組み上げればいいだけだから、なるほど、スムーズに仕事がはかどるわけである!
ところで、ロバートの工房を訪れる人間はなぜか女性、それも美女ばかり。当然のこと、彼にキャスティングされた役者たちだろう。すると、サラという恋人がありながらロバートが客の金髪美女とレストランで食事をしていたのは、純なヴァージルが想像したような浮気などではなく、きっと進行中の計画の打ち合わせでもしていたのだろう。「ほんっとバカだよあのジジイ!んもう、上手くいきすきて笑いが止まりませんわ〜!」とかなんとか、楽しく祝杯を上げていたのに違いない。


②サラ
·····チョイ役(ロバートの恋人役)、進行補佐
イベットソンがロバートに寝取られる危険性を匂わせることでヴァージルを焦らせ、あわれな老人を恋愛沼にハメる。物語の進行を早めるとともに、実際には共犯者であるイベットソンとロバートの関係からターゲットの目を逸らす、地味ながら重要な役どころ。
あんたなにやってんの!ぐずぐずしてるとあの娘取られちゃうよ!少年マンガの恋愛ものには欠かせない、弱気な男子を告白に踏み切らせる係だ。


③イベットソン
·····主演女優(ヴァージルの恋人役、濡れ場あり)
ロバートによって綿密に構成された脚本とはいえ、ひとえにその成否は、主演女優であるイベットソンの演技のほどにかかっている。失敗すれば一年半の苦労が水の泡。ただでさえ責任重大であるところに加え、映画の後半には好きでもないジジイとのベッドシーンが待っている。いくらなんでも金だけでは首を縦には振るまいから、彼女はきっとロバートの本当の恋人なのだろう。監督のためなら一肌脱ぎます、というわけだ。
ちなみに、彼女が本物のイベットソンでないことを示すポイントは各所に散りばめられている。ここではヴァージルがこっそりイベットソンを覗き見るシーンを巡って、二点ばかり。
・二度目の覗きの場面、ヴァージルが彫像の裏に隠れた時、部屋から出てきたイベットソンは明らかに一度そちらに目線を向けている。つまり、ヴァージルが潜んでいることを確認した上で何者かと通話する演技を開始し、『氷の微笑』のシャロン・ストーンばりのセクシーポーズで誘惑するわけだ。しかし考えてみれば、これほどのラッキースケベが現実に起こり得るはずもない。きっとヴァージルはアダルトビデオを見たことがなかったのだろう。美術以外の分野についても少しは見聞を広めておくべきだった。もしくはわれわれ観客が教えてあげるべきだった。「気をつけろジイさん!そんな展開AVでもないぞ!」と。
・秘めやかな裸体の箇所をいちじくの葉でそっと隠すアダムとイヴの彫像を挟んでイベットソンと対峙するヴァージルは、今まさにイヴの誘惑に負けてヴァージンを喪失する瀬戸際に立たされている。なんとも愉快でいじわるな童貞ジョークではないか!。ヴァージルは必死でこの像にしがみつき、身を隠そうとするが、同じ境遇に立たされたロバートは平然と身を乗り出す。いや、出しすぎだ!位置関係から言って、この時ロバートの姿はイベットソンから丸見えになっているはずなのだ。つまり彼は正体がバレることをまったく気にしていない。本当のところは、監督らしくハラハラしながら主演女優の演技を見守っていたのだろう。両者が視線で合図を送りあっていることが、ちゃんとカメラの切り返しショットによって示唆されている。二人が実は親密な関係にある証拠となるシーンだが、ロバートがアダムとイブの彫像から身を乗り出すのは、既にエデンの園の禁忌を破っている=真の恋人であるイベットソンとヤリまくっていることの象徴だろう。裸の彫像をネタにした小粋なジョーク、童貞ジジイとヤリチン男の鮮烈な対比である。


④フレッド
·····脇役(管理人役)
映画を引き締める名バイプレーヤー!日本版リメイクはぜひとも竹中直人か諏訪太郎で!
絶妙なタイミングでヴァージルにヒントを与え、誘導する役。イベットソンが失踪した折、「もうひとつの隠し部屋」の存在を仄めかすロバートの発言を受け、渋々を装いつつちゃっかり主人公をご案内。かなりの演技派だが、自分を対等に扱わずチップでものごとを解決しようとするヴァージルに、「そういうことじゃねーんだよなー、わかってねえなージジイ!」と苛立ちを募らせるあたり、おそらく演技ではない。ある意味でもっとも人間らしく好感の持てる人物だ。


⑤ビリー
·····特別出演(内通者役)、小道具
過去に画家としての実力を認められなかったことから、長年ヴァージルを恨んでいたらしい。ターゲットの特徴や隠し部屋の存在などをロバートに教えたのはおそらく彼だろう。特別出演のほか、小道具としても“映画”に参加し、三流のドガみたいな踊り子の絵を屋敷内に提供。それについてイベットソンは「母が描かれた絵なの」と言うが、ヴァージルは「たいした絵じゃない」と酷評。ほーら、やっぱり認めてない!ヤなやつ!ヤなやつ!
絶好のタイミングで「何事も偽装できるのだ」「君がいつも言ってるじゃないか。贋作の中にも真物が宿ると」などと意味深発言を行い、ヴァージルを挑発&ミスリード。粘着質だがおちゃめなダンディーだ。


以上、5名の勇敢なヒーローたちに拍手!



✨『スケベジジイを成敗するオーシャンズ5』主人公紹介

⓪ヴァージル
·····主演男優(被害者役、ただし無意識)
おっといけない、主役の存在を忘れていた!『鑑定士と顔のない依頼人』の主人公ヴァージルは、『スケベジジイを成敗するオーシャンズ5』の主人公でもある。ただし本人はキャスティングされていることを知らないから、ギャラはおあづけ。いや、金は支払われないどころか····レ・ミゼラブル!ここから先は勘弁してあげよう。
まず彼の名前Virgil Oldmanに注目してみよう。Oldmanはそのまま古臭い男、Virgilは純潔を意味するVirginと一字違いだ。つまりこの名前は「高潔な倫理観を守り抜く昔気質の男」という意味の暗号になっている。一方でOldmanを老人と解釈した場合、Virgil Oldmanは「童貞ジジイ」という強烈な悪口とも取れる。なんたるダブルミーニング!とはいえ、これら二つの意味をかけ合わせればそのままヴァージルの人格が完成するのだからやりきれない。
当初は前者の姿勢を崩さず分別くさく振舞っていた彼だが、次第に化けの皮が剥がれ、後者の側面が露出していく。「高潔な倫理観を守り抜く昔気質の男」が「童貞ジジイ」へと転落していくわけだ。無垢な魂の持ち主が誘惑に負けて堕落していくさまは、聖職者やブルジョワジーの退廃を描いたルイス・ブニュエルの傑作群を思わせ、また主従関係のアナーキックな転倒を描いて凡百のホラーの100倍恐ろしいジョゼフ・ロージーの名作『召使』(1963)を想起させる。いずれもその風刺の意図は権力批判・教会批判にあり、既成の権力主体が荒廃していく過程を描き出すことは、特にキリスト教圏においては涜神的な性格を持つ。敬虔な信徒が悪魔の誘惑にさらされ神の試練を経験するという物語形式は、聖アントニウスの誘惑をはじめとして、絵画作品にもたびたび取り上げられる聖書中の重要主題だ。しかし、もし彼がなすすべもなく悪の前に敗れ去るとすれば、無限であるはずの神の威光になんらかの限界が存在することになり、聖母マリアに象徴される純潔性Virginityが傷つけられる事態にもなりかねない。Virgilという名を持つ高潔な老人が年若い女性に夢中になり肉欲に溺れていく展開は、まさにこのような意味において涜神的な性格を持っているわけだ。そのお相手となる女性が、人類を堕落させた原初の女=イヴの名を持つイベットソンであればなおさらのことだろう。
姓名を二つに割って考えてみるのもまた一興。姓についてちょっとした解説を披露くれるのはイベットソンだ。ヴァージルが隠れていると知りつつ、架空の通話のなかで「あらやだ、名前ほどおじいさん(Oldman)じゃないわ。いつも古臭い変な格好をしているけど」とさりげなく本音ディス。事実、どんな時にもドレスシャツ・ベスト・テーラードジャケット・チェスターコートの正装でキメた彼の姿は、ボー・ブランメルに代表される18〜19世紀末のダンディーさながら。おまけに、テーラードジャケットの襟はノッチドラペルではなく時代がったピークドラペル仕様、チェスターコートと見える上着も丈の長さからして前世紀に流行の廃れたフロックコートと思しい。ここまで来るともはや、昨今お目にかかれない念入りな正装、イヤミなまでに“紳士的な”スタイルだと言わざるを得ない。要するに、わざわざ天然記念物並に古臭いイギリス紳士のコスプレをし、過剰な鎧で身を覆うことによって、傷つきやすい内面を保護しているのがヴァージルという人物なのだ。
第二の皮膚たる衣服は、時に裸より雄弁に語る。事態がのっぴきならない展開を見せていくにつれ、ヴァージルの衣服は乱れ、鎧は剥がれ落ちていく。こっそり覗いていたことをイベットソンに告白するシーンでは、乱れた呼吸を整えるためだろう、固く閉じられていたシャツのボタンが次々と外されていく。失踪したイベットソンを探し回ってオークションに遅刻する場面では、服装の乱れが言葉や思考の乱れとなって表れ始め、出品物の名前を取り違えて一堂から失笑を買う始末。そして、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく衣服とそれが象徴する権威は、クライマックスにおいてついに丸裸となり、イベットソンとのベッドシーンを導き入れていく。
他方、名に隠された暗号を説明してくれるのはヴァージル自身だ。それまでひた隠しにしていた生い立ちをイベットソンに告白するシーン。身寄りがなく孤児院で育った彼は、そこで必死に絵画修復の技術を身につけ大成したが、いまだ他者への不信や恐怖心が抜け切っておらず、女性に手を触れることすらできないという。彼がわざわざ19世紀ダンディーのような服装に身を包み、女嫌いで知られた彼らに心まで成りきっているのはそのせいだろう。手を触れることすらできないというのだから、当然セックスも未経験、早い話が童貞=“Virgin”である。彼を苦しめる女性恐怖症の大元には、おそらくは自分を捨てた母への憎悪が潜んでいるに違いない。生身のオンナを相手にできない代わり、大量の女性肖像画を秘密の部屋にコレクションするヴァージルの姿は、美少女フィギュアを収集する現代のオタクのイメージと重なって見える。
ロビン・ウィリアムス主演の映画『ストーカー』(2002)において、写真屋で働く心優しき中年男性サイもまた、天涯孤独の身の上からコンプレックスを抱いており、店の常連である母子の家族の一員に加わりたいという危険な願望に目覚めていく。依頼された写真の現像をちょろまかして集めた家族のポートレートを部屋の壁一面に貼り付け、うっとりとそれに眺め入るサイの姿は、満足げに肖像画を眺め回す本作のヴァージルと瓜二つだ。ひょっとすると、サイが想像の中で家族との同一化を果たしたように、孤独な鑑定士は、美しく描かれた理想の母たちに取り囲まれ、ひっそりと息子返りの快楽に浸っていたのかもしれない。
いずれにせよ、現代のダンディーの本性が重度のこじらせオタクに過ぎなかったことは明らかだ。すると本作のオチは、さしづめ高齢童貞筆下ろしバッドエンドとでもいったところか。できればプレイしたくないタイプの鬱エロゲーだ。



✨まとめ

名は体を表すとはよく言ったもの。『スケベジジイを成敗するオーシャンズ5』のテーマは、主人公の名前“Virgil Oldman”の中にあらかじめ予告されていたと言っていい。われわれが見ていた映画の真実の姿は、正義のヒーローたちの機知に富んだ策略と巧妙な立ち回り、そして「高潔な倫理観を守り抜く昔気質の男」が「童貞ジジイ」へと、現代のダンディーが現代型のオタクへと転落していくさまを皮肉たっぷりに描いたものだったのだ。
とはいえ、当然ながらこうした俗なる本物サイドは、『鑑定士と顔のない依頼人』という作品のひとつの捉え方であるに過ぎない。そもそも、淡い期待や神秘的な幻想を抱かせる余地が映画内に残されていなかったとすれば、ヴァージルがこうもたやすく騙されることはなかったはずなのだ。
したがって別項では、真相が明らかになる直前までわれわれが見ていると信じていた映画=聖なる偽物サイドの方に焦点を当てることとしたい。ひとつの可能性として有り得た映画を復元する試み、幻想のピースを組み合わせて『機械仕掛けのプラハと未来のイベットソン』という物語を再構成する企てだ。必然的に、贋作を磨き上げた結果として生まれる怪しい輝きが見出されることだろう。
『スケベジジイを成敗するオーシャンズ5』に破顔した読者は、続いて、ニセモノの中にもホンモノが宿ることの一例として、世界像の鮮やかな反転を楽しんでいただきたい。



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