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暗闇の中で映画は一人きりの私を上映してくれる




「つまらない映画が存在する事実」と「つまらない映画を私が見る固有の体験」を混同してしまう人が多いのがフシギ🤔
なぜ私はつまらなく感じたのか?を考えることは、なぜ私はおもしろく感じたのか?を考えるのと同じぐらいおもしろい分析経験になる。
損切りしてたら、得=私自身の欲望と快楽を学べないよ🙅🏻


一方で、画像のような自分への問いかけを行うこと自体は悪くなくて、ただ、問いの立て方が間違っている。
「他ならぬこのボクはなんでこの映画をこんなにも面白くなく感じてしまうんだろう?
“なんの意味あんの?”」
こうすれば、「意味」という言葉は自己の奥深くにまで届く精神分析的な試練となって、新たに浮上してくる。


個人的な話をすると、このような他に代えがたい自分にとっての“試練”の出現が、僕が批評=critic=危機の場を立ち上げる際の重要な出発点になっている。
要するに、精神分析的な生き方に向けて勇敢な一歩を踏み出すなら、価値判断の基準はおのずと二重化しはじめるわけだ。
つまらない映画に出会うと腹が立つのだが/自己への道標としてはおもしろい。

判断の第一層目では、いいものに心底感動し、つまらないものにムカッ腹を立てているのだが、同時に第二層では「この世のすべてのものが“なぜか”私の外部に位置しており、そのくせ/それゆえ、私という闇に様々な角度から光を当ててくれる」という謎が私に向かって指し示す固有の“意味”において、結局はなにもかもが平等におもしろく思われてくるのだ。


というように、切り分けて考えてみてこそ、実はこれらはちっとも矛盾しないんだけどなあ·····🤔
なによりも、判断の基準が二重化するとなんでも楽しめるようになってくるし(つまり、楽しめない体験も楽しめるようになるわけだから・笑)、自分の幅が無限に広がっていく。
そんなんでええんちゃう?🐻



(´-﹃-`)ムニャムニャ…
いや、当たり前のこと言いますけど、俺もおもんない映画をわけのわからん義務感から無理して最後まで見る必要は全然ないと思いますよ(笑)
そこで「損切り」なんて妙なつまらない言葉を持ち出すから悪いのであって、つーかそんなもん、「各自好きなようにすりゃいい」で最初から結論決まってるでしょーが!(笑)
そうじゃなく、それ以上のもっと根本的な話をしたいから僕は書いてるわけで·····


( ͜🧸ˊᗜˋ˶) ͜🧸
最後に、とっておきのギャグをひとつ思いついたので聞いてください。
「みなさんこんにちは!3分間クッキングです。まずはキャベツを損切りしていきます·····」




おしまい


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