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フロイトは心の経済学をやろうとした!? 〜ダンディズムと機知を考える演技論メモ📝〜
フロイト理論の独自性・特異性がどこにあるのかがようやく仄見えてきた。フロイトは心理学というよりむしろ心理経済学とでも呼ぶべきものを打ち立てようとした。一見して不可解な人間の心のはたらきを経済合理性の観点から統一的に把握することこそが彼の悲願だったのだ。
精神分析誕生前夜、霊感迸るまま一気呵成に12篇を書き次いだ後自らの手で封印した曰くつきの論文(現在までに計7篇が発見されている、通称『メタサイコロジー』論文)を皮切りに、つまり研究の最初期から既にして、「心的経済」「心的消費」「心的支出」「心的装置」「心的システム」「備給」「節約」といった一見心理学とは不似合いなように思える言葉がフロイトの書きものの各所に見られるのはそのためだ。
人間の心が外から直接観察することが不可能なものである以上、必然、その研究対象は心理現象の一部外在化と解し得る広範な事象へと向かうことになる。なかでもフロイトにとって最初の大きな獲物でありその業績の跳躍台となった分野は言うまでもなく「夢」だが、他にも「言語」(対話、自由連想法、失錯行為、滑稽なもの、ユーモア、とりわけ機知)や「芸術」(広く大衆の関心を集めることになった稀なる人間心理の記録としての)などを的に据えつつ、後期には宗教や文明といった人間心理のある傾向が歴史の篩と伝統の網にかけられながら特定集団の共有物へと高められるに至った巨大な形象を相手取るようになる。
だが、フロイトの頭にはいつも変わらぬシンプルな疑問があったに違いない。
「なぜ人間はわざわざ不合理でコスパの悪いふるまいに及ぶのか?」
そしておそらくこう考えた。
「いや、神がお造り給うた人間が不合理な存在であるはずがない。とすれば、一見不合理なように感じられる心のはたらきは、ある特殊な経済合理性に基づくシステムにしたがって機能しているのではないか?」
それは一種の経済学的な強迫観念、あるいは西洋社会=ギリシア・ローマ的文化が長く培ってきたフェティッシュなまでの人間理性に対する信仰だったのではないだろうか?
そう、フロイトはヘルメス・カバラの秘教的な精神性とギリシア・ローマの近代合理主義との間で深く葛藤する、遅れてきたルネサンス人であったのだ。その(基礎的な誤謬と天才的な閃きに彩られた·····)芸術論の代表作がダ・ヴィンチについての論考であることは偶然ではない。
実際、学会での立場を不利なものにし立身出世の道を険しくするように思われる自身の出自(旧チェコ領モラヴィア生まれのユダヤ人。3歳の頃ウィーンに移住)に、フロイトは絶えず悩まされ続けていた。例えば彼が弟子たちの中でもとりわけユングをかわいがったのは、精神分析批判の風除けの柱として立てるためだったという話がある。というのも、生理学畑出身で学生時代ヤツメウナギの解剖をやっていたフロイトとは異なり、ユングは先進医療で名高いブルクヘルツリ病院に勤務するれっきとした医師であり、なにより純粋のスイス人であったからだ。
したがって、現代でもよく見られるように、もしだれかがフロイト思想の中にオカルト的な傾向を認めるとして、その者は意図せずして真実の一側面を言い当てていることになろう。
なぜなら、フロイトは神とともに人間理性を奉じたキリスト教系の友愛結社フリーメーソンと同程度に理性的・合理的・科学的であり、また同程度に秘教的・オカルト的・ホモソーシャル的な思想の持ち主であったからだ。もっとも、フロイトの神は基本的にはユダヤ教の神だが、むしろ彼個人の実存はローマの双面神・ヤヌスが持つ両義的な交通性に近い。
そして、「フロイトに帰れ」の標語のもとにフロイトの復権を図ったラカンは、必ずしもその思想に対する全面的な帰属を促したわけではなく、偉大な先達が的にした数ある標的のうちから「言語」を選び取り、特に「機知」の概念を念頭に置いて、回帰=読み直しを提起したのだった。具体的には、ソシュールの言語理論をモデルに心理経済学をアップデートする試みである。
「無意識は言語(ランガージュ)のように構造化されている」といういかにも神秘めいてかっちょいいキーフレーズは、実は「人間の心も言葉みたいに合理的でコスパよく動いてるんだよ!」ということを言っているに過ぎなかったわけだ。
実際、フロイト=ラカンが心理学ではなく心の経済学をやろうとしていたからこそ、マルクス理論との接点が生まれ、後年に至ってジジェクらラカニアン・レフト(ラカン派左派。フロイトとマルクスの発展的融合を企む思想派閥)を輩出することにもなり得たのである。
心という目に見えないものの実相に迫るために目に見える種々の対象への多面的なアプローチが必要とされ、その経済合理性を解き明かすためにこそ、時に誇大妄想的でオカルトちっくな論理過程が(本来理がないところにあえて理を見出そうとする“科学的態度”のゆえ、逆説的に)呼び出された。ここにフロイトのライフヒストリーを重ね合わせてみる時、こうした逆説へのこだわり(そもそも無意識の理論は意識のそれに対する逆説である)からはユダヤ性とギリシア・ローマ性との間で繰り広げられた彼自身の葛藤が浮かび上がってくる。
このように考えてみると、突然すべてが腑に落ちるような気がしたのだった。
以上はフロイトの機知概念を主にフェミニズムの知見を用いて批判的に読解するサラ・コフマンの『人はなぜ笑うのか? フロイトと機知』 を読み進めるなかで得た天啓なのだが、これはあらゆる意味でとてもおもしろい本で、コフマンは機知=フロイト流ユーモア論の丁寧な読解を通じて暗に演技論を語っているようにも思えてくる。
フロイト曰く、機知(いわゆるウィットに富んだジョークや、寸鉄人を刺すような鋭い切り返し)を言う者は、その特殊な笑いの標的となる第二の人物の他に、それを傍で耳にして笑う第三の人物の存在を必要とする。そうして自身はけっして大口を開けて笑ったりせぬ機知の担い手は、第三者に代わりに笑ってもらうことによって心的エネルギーを「節約」する。このように心理経済における逆説的な合理性が観察される点が、滑稽なものや単なるユーモア(フモール)とは異なる機知の特徴なのだと。
だが、とここでコフマンの鋭いツッコミが入る。それが心的エネルギーを節約していると本当に言えるのだろうか?機知を口にし、その場に見合った当意即妙の笑いを無償で提供する第一の人物は、どう考えても第二、第三の人物より多く心的コストを支払っているではないか?。なるほどもっともな指摘だ。しかしそれでは、実際のところ機知における心理経済の内実はどうなっているのだろう?
ここから話は通常の合理性の観念をうやむやにしメタ化する演技的な快の領域へと差し掛かっていく。
ところで、僕がよく言う「演技者」とは即ちボー(伊達者)・ブランメルに始まる「ダンディ」の系譜のことであり、生き方の指標として掲げる「演技者として生きる」とは「ダンディズムを貫く」態度であるにほかならない。ちなみに以前友人の小説家・黒井瓶氏は私的なやり取りの中で「ダンディズム」を「やせがまん」と評しておられたが、僕としてはぜひともこの的確な訳語の頭に「美的な」という形容を付け加えたい。
演技者≒役者が観客を必要とするごとく、ダンディがいつも必ず観衆の存在を必要とする(だからこそ神話めいたエピソードの数々が伝えられている)前提を思うに、「(笑いの省エネ)プロセスの完成のために第三者の存在が必要」である点に機知の特性を認めるフロイト=コフマンの議論は、既成権威を鮮やかに覆す機知によって記録される歴史上のダンディたち、またダンディズムという美的なやせがまんの経済(不)合理性のメカニズムを解き明かす鍵になりそうだ。
あるいは、生きることと演じることとの間で揺れ動く演技者たちの心的経済における歳入・支出・節約のバランスを明るみに出すパフォーマティブな心理経済学へと敷衍できるのではないか?
そう、早い話が僕はこの本を読んで自分なりの演技論=ダンディズム論を書いてみたくなったのだ!
ありがとう、サラ!
ありがとう、フロイト!
乞うご期待!
(いつになることやら·····(´-﹃-`)ムニャムニャ…)
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