「エンタメ系映画を見ている人を馬鹿にする人」は本当に存在するのか? 〜無意識となかよく〜



まず確実に言えるのは、
・観賞に知性を要しないエンタメ映画を作るためには知性が必要。
・「エンタメ系映画を見ている人を馬鹿にする人」の実例には幸運にもお目にかかったことがないが、「エンタメ系映画を見ている人を馬鹿にする人をくさす人」の実例にはこの通り頻繁にお目にかかる。
ということ。
ま、こーゆーのは「あなたが知らないだけでいっぱいいるんですう!」って言い張られたらそれまでなのだが、その人の経験上で、「馬鹿にする人」の数が「馬鹿にする人をくさす人」の数を実際に上回っているのかどうかはやはり疑問だし、そんなやつがもしほんとにいたとすれば、それは映画どうこう関係なく単に「やな奴」に分類すべきなのでは?


僕が実際に知っている「知性が必要な映画をたくさん観ている人」は単に「映画を愛している人」であって、当然「知性が必要ではない映画」も山ほど見ているし、そもそもこんな雑駁な括りで人間や映画を分類したりはしないんだけどなあ。


だいたい「知性」ゆうてもな、200色あんねん!
例えばポーランドの鬼才アンジェイ・ズラウスキー監督の映画が「知性を必要とする芸術映画」なのか「知性を必要としないエンタメ映画」なのかはおそらく誰にも判定不可能だし、真実を言えばそれは単に「映画」なのであって、作品そのものと向き合わずてめえで勝手に「映画」の幅を狭めて他者を攻撃している差別主義者はどちらの方なのか。


「数をこなす」ことにもしなんらかの利点が認められるとすれば、それはあるジャンルについて自身が素朴に信じ込んでいる「こっからここまで」の概念を打ち壊し、その幅を無限に拡張してくれることだろう。
「ここまでしかない」決めつけの意識を捨て去ることによって初めて「ここまででもどこまででもあっていい」多方面的な許容の姿勢が育成されるのだ。


件のツイート、一言で言ってしまえば「愛がない」。
自分が映画に対しても人間に対しても愛を持てない差別主義者であると認めることができないためにいつかだれかにその本性を言い当てられるんじゃないかと終始不安に陥るからといって、てめえの姿を鏡写しに見てありもしない差別の形態をでっちあげ、映画や人間に対して愛を持って生きようと努力している人たちを攻撃することによって卑小な自我を保とうとするふるまいは大変醜いので、即刻おやめになった方がよろしい。


ほんと、素直に認めちゃえば楽なのにね。
「わたしは愛のない差別主義者なので自分が理解できる範囲の映画にしか価値を認められませんしわたしに理解できない映画を理解しているなどと公言して憚らない嘘つき野郎(まったく、そんなことは有り得ないのですから!)を憎んでおりその憎しみを正当化するためにありもしない被害妄想をでっちあげ日々見えない敵と戦っております!」って。
別にそれでもええやんか。
なにがあかんの?
出発点としては充分やがな。


バカとハサミとヨクアツは使いようで、抑圧はその存在を認めてあげることによって初めて、新たな創造のための契機を形作る。
 「わたしの中にはわたしの知らないおぢさんが住んでいて、そいつはけっこーやなことを考えていて、わたしの精神の安定を守るためならどんな無理筋の論理でも平気で引っ張ってくる」という、無意識の詐欺師的な性格をよく理解し、自身のマイナスの感情を認めた上でなければ、その者の意思決定や感情体験のハンドルは永久に知らないおぢさんの手に握られたままで、自分の人生を本当に生きることにはならないのだ。



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