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罪悪感からはじめる平和希求

パレスチナとイスラエルの戦争のことをずっと考えている。

高校生の時、ちくま評論選に載っていた岡真理先生の『棗椰子の木陰の文学』に衝撃を受けた。
そして、『アラブ、祈りとしての文学』を読んで、私はイスラーム史を学ぶと決めた。

変な話だが、イスラームではない宗教家の家庭で育った私には、それがある種の抵抗で、アイデンティティ形成の支えになっていた。

実際に私はイスラーム史を専攻して、パレスチナ問題について詳細に学んだ。
ガザ地区の塀の中に閉じ込められ、最新兵器で殺されて、それなのに世界に忘れられていくガザの人々に涙した。イギリスが諸悪の根源で、アメリカが戦争を助長していて、運河の利権で人が殺されて、金の問題さえどうにかすれば解決できる問題だと考えていた。
理解に繋がるならと、イスラームの文学を読んで、アラビア語を学んだ。対立する価値観を融和する寛容さはないか、資本主義に変わる世界の原理はないか探し続けた。

一方で、なぜイスラエルが軍事国家に"ならなければならなかった"か、も知った。
幸いなことか不運なことか分からないが、芸術と生き証人の言葉からユダヤ人の歴史観を知って、強烈に刻まれた。
イスラエル建国に至るまでの2000年間、ユダヤ人に刻まれた記憶では4000年間、シオニズム、人類最悪のホロコースト、そしてイスラエル建国後にすら世界に見捨てられたユダヤ民族の世界からの孤独を知った。

私はシオニズムには反対だ。もちろん戦争には断固反対だ。
しかし、シオニストだけに責任を追求することはできない。それならばユダヤ人を迫害してきた全ての者たちに責任を追及すべきだ。

終戦とガザ地区の国際法違反の占領状態からの解放を強く訴える。

しかし、知れば知るほど、その後も憎しみの連鎖は終わらないと思えてしまう。奇跡的な出来事がない限り、確実に言えてしまう。

蹂躙され抑圧され見下され殺されたパレスチナのハマスの軍事部門に残された道は暴力しかなかったかもしれない。
それでも、一般市民のイスラエル人を、たまたまそこにいただけの観光客を、人間を、拉致・虐殺していい理由には決してならない。

同族を殺したテロ構成員は集合住宅や病院に紛れていて、強さを誇示し続けなければ自らの生の根拠となる国がなくなるかもしれない。
それでも、一般市民のパレスチナ人を、医療従事者を、人間を、虐殺していい理由にはならない。
そして、いまこの戦火が留まるどころか、拡大している。

どっちもどっちではない。
どちらも裁かれるべき者は裁かれるべきで、どちらも救われるべき者は救われるべきだ。
どちらも追い込んだのは世界だ。

パレスチナ人で爆弾の下にいる子どもたちを救い、イスラエル人で拉致された子どもたちを救う。
どちらも同時に叶うことのはすだ。

するべきは政治的解決である。根本を断ち切るのであれば、ハマスの殲滅でもなくイスラエルの解体でもなく植民地主義の終焉でもなく、ナショナリズムという想像の共同体の終焉としか思い至らない。
でも、時間がかかる。そうすると、いまはそれが将来的な解決にならないと分かっていても、人道支援をするしかない。

権力者を引き下ろすか、人が変わるまで改心させるかしかないのかもしれない。
だからこそ平和を望むデモには参加したい。
けれども、デモにまじった新左派(極左)を私は許せない。デモの現場に足を運んでも、虐殺を肯定した集団がいる限り私はデモに参加できないし、参加しない。

ただし、私にとってこの争いは遠い国の話ではないことに変わりはない。
2.5人称の問題として、考えて学び続けなければならない。自分でそれをわかっているので、ずっと心に重くのしかかっている。そして、ノイローゼになっては子どもたちが麻酔なしで足を切られる痛みと比べて、無力さに落胆した。

それでも、わずかでも寄付をすることで私の心は救われた。
署名をすることで私の心は救われた。
きっとこの記事を投稿することも、自分の心を救うためでしかないかもしれない。

すべての平和運動は自分のために行う。
自分も理不尽に殺される可能性を低くするため。
殺されたとしても自分の存在を自分で肯定するため。
たまたま安全圏に生まれ落ちただけで、明日の命を心配せずに生きられるうしろめたさを取り除くため。

私だって知らないことばかりで、正しいことをしているという確証も持てない。この行為が善意か慈悲か偽善か見栄か分からない。
それに平和を願うのであれば、パレスチナとイスラエルだけに目を向けているのは世論の流行にのっているだけに過ぎないと思う。
戦火にあるウクライナにも、傭兵として戦うシリア難民にも、道端で目にしたうずくまったホームレスにも、手を差し伸べなければならないという義務感が生じている。

だから、自分が正義の側にいると確証している人たちが、畏怖の意を込めて、私にはとても信じられない。
その正義を続けなければならないだろうから。
「えらいね」と言われることがいま一番怖い。

唯一、臆病で力のない私でも、何もしないよりはずっと良いということだけが分かる。
それは誰だってそうなのだが、こうしろ、関心を持て、と押し付けることはしてはいけない。その相手は誰かを救うよりも、自分や身内を救わなければならない状況にあるかもしれない。それは他者には決して分からない。
想像力の欠如から無関心への批判はできない。

心を侵すだけでは済まず、脳を揺さぶるこの罪悪感を払拭したい。
私は、私を救うために、平和を希求する。

もし、戦争はなくなってほしい、どうしたら平和になるのか、自分には何もできないのか……と悩み、心をすり減らす人がいたら。
まずはできることをやればいい。

上記の記事は、今できる人道支援を分かりやすくまとめてくださっています。

K-POPが好きな方は、ぜひこの記事を読んでほしい。
私はK-POPを全く知らないけれど、この方の言葉にきっかけもらえた。
きっかけになるんじゃないかと思う。

何かしら一つはできることは必ずあるはず。
貢献度ではなくやるかやらないかなので、思いつめたり、自己嫌悪に陥ったりしなくていいと言いたい。


≪追記≫2023.12.7

本当にさまざまな文章を読んだが、乙武洋匡さんの記事が一番自分の心境に近かったこともあり、シェアをさせていただきます。

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