『斜陽』読了 と文学部の悪あがき
我が文学部人生で王道というものを遠ざけてきてしまった私は、文学部であるうちに読まねばなるまいと思い、ついこの間「人間失格」を読んだ。
その感想文もしたためたが如何せん自意識過剰になってしまって公開するのを見送っている。
結論からいうと太宰は私の感性にぴったりのようですごくすごく面白かった。人生のバイブルにする。
今回はその流れで太宰の「斜陽」を読んだ。
私の友達も太宰の書く女の人の描写は綺麗だと言っていたことを思い出して、なるほどと思った。
きれいな中にある毒は際立つ
太宰の書く女の人は麗しい人が多いけど
美しさの中の毒が、とても上手に頸動脈を締めてくるように
ふわふわと侵してくる。
ストーリーだけを言うと、最初はあまり直治が好きになれなかった。でも、私が好きなのはやっぱり直治だった。
研究をしてないから、私はわからないけれどどうしてかず子は子供がほしかったんだろう?多分このへんは太宰の当時の女性関係に起因しているんだろうな(予想)
友人がこの「人は恋と革命のために生まれてきた」という言葉と「戦闘、開始。」という言葉についてをゼミで発表していた。なんでも当時付き合いのあった女性の日記からの引用であるようで、彼は数多い恋愛があったからこそきれいに女の人を、心を、かけるのだろうと思ったのだ。
母親が亡くなるまでこんなぬるま湯みたいな話なのか??とおもったけれど、毒々しい感じじゃなくて、薬に近い毒。
直治の思い人とかず子の思い人がうまくすれ違ってて太宰やるやんと思いました(誰)
「これは、直治が、或る女のひとに内緒で生ませた子ですの。」
ああ語彙力がないよ!!!すごい!!
上原の奥さんに恋い焦がれた直治の思いは間接的にかず子が身籠った上原の子供に託されてて…うううう!語彙力がない!!読もう!(思考放棄)
他の生き物には絶対になくて、人間にだけあるのものは、ひめごと ってところ好きです。そっか秘め事か…ってなりました…わたしもこれ使う…
お酒がおいしいか聞かれたときの返答の「まずいよ」ってところも好きだ。お酒は美味しくない。わたしも本当はあんまり好きじゃない。いつかだれかが言ってた「お酒は酔うために飲むんだよ」という言葉を反芻した。
アルコールはドラッグなんだ。合法のドラッグ。実際大麻より危険なのだ。ただ酔うためだけに安酒を煽っているのが太宰の作品で印象的だ。そう、酒は酔うために飲むのだ。右も左もわかんなくてふわふわとした感覚にのみ救いを求めて人は酒というドラッグに溺れてるんだ。
直治のことが好きになったところは遺書を半分も読んだ頃だ。
彼の日記ですかした野郎だなと思ったけれど「僕が早熟を装って見せたら、人々は僕を早熟だと噂した。僕がなまけものの振りをして見せたら、人々は僕をなまけものだと噂した。(中略)僕が冷淡を装って見せたら、人々は僕を冷淡なやつだと噂した。けれども、僕が本当に苦しくて、思わず呻いた時、人々は僕を苦しい振りを装っていると噂した。」ここだけで、彼は虚勢を張っているんだな。とわかった。きっと本物の下品にはなれない、かといって高貴でもいられない宙吊りの自我を持っているんだとわかった。
けれど、ここで直治を好きにはなれなくてやっぱり遺書を読むまでは彼よりもかず子に感情移入したのだと思う。
「生きていきたい人はどんなことをしても、必ず強く生き抜くべきであり、それは見事で人間の栄冠とでもいうものもきっとその辺にあるのでしょうが、しかし、死ぬことだって罪ではないと思うんです。」
これ以上の救いの言葉を私は知らない。
みな、得手不得手があり、その不得手が生きることで、生きるのに適しなかっただけの人がいて、その人が死ぬのがどうして悪いことなのだろうか。生も死も善悪の区切りでは分けられないと思うのだ。死と生は表裏一体で、死のうとする人を(止めてほしい人は別として本気で死ぬつもりの人を)止めるのはなんだかお門違いな気がしている。
友人は言う、本来死というものはもっと身近にあったもので、そこに救いを求めるのは間違っていると。
いや、私はむしろ身近にあったからこそ、今死という概念から離れてしまったからこそ、人々は死に敏感になったからこそ、死に救いを求めてしまうのは自然だと思ったのだ。だから死を悲しんでも、死を止めることはナンセンスなんだと思うんです。
「僕は遊んでも少しも楽しくなかったのです。快楽のインポテンツなのかもしれません。僕はただ、貴族という自身の影法師から離れたくて、狂い、遊び、荒んでいました。」
彼には生まれながらに貴族と言う肩書きがついてきた。でも先程陳べたように彼の自我は宙吊りだった。下品になるために遊んだ、酒も阿片もやった。けれど、完璧な下品にはなれなかったんだと思った。母のような気品も優しさもない自分はそこにも格差を、貴族であると言う肩書きにも憎しみを、かといって下品になりたくても、下品にはお高くとまっていると言われその肩書きが外せないことも、なにもかもが彼にとって宙吊りだった。遊んでも楽しめない肩書きがあった、それは彼には負い目だった。でも私個人的にはその肩書きを全く愛せなかったという感じはなんとなくしなかった。だから彼は遺書の最後に「僕は貴族です」と書いたのだろう。
なんてすごい締め文句なんだろうと感嘆の声を漏らしてしまった。死の間際にして彼はもしかしたら貴族だと言うことを受け入れたとも思える。
快楽のインポテンツだとわかって、根はやはり貴族だったと諦めの言葉かもしれない。
読んだ人はどちらだったと思いますか。それ以外も聞いてみたいです。
感想文なので作者の背景などを加味せずに徒然としたためたが、ゼミ生のうちに一度くらいは太宰の研究もすればよかったなと思いました。
文学部の効力がきれそうな、文学部の、悪あがき。次は漱石か、谷崎です。漱石はこころが読みたいけどなかったので夢十夜にします。おすすめされてたのがやっと読めます。
文学部という肩書きを失っても文学部だったという意識で読書して感想文かいて、文豪に恋したら研究もちょっとだけしてみます。私が天才だな、好きだなって三年間恋してるのが夢野久作先生なだけで。
またドグラマグラも読みたいけど、多分卒論の不完全燃焼さが露呈してしまう気もして読めていない。だから、もっともっと時間をおいてから読みます。本だけ買おーっと
太宰先生の研究軽くしてみようかなと思いました。先行論を読んでってかんじのゆるゆるだけど。たくさんあるから太宰先生の研究は。読んでるだけでまあ楽しいと思うし思考に近いのがありそう!
ながながとお付き合いいただきありがとう。
とにかく、太宰は私にぴったり来たようなので今後も読んでいく所存です。おすすめがあったら聞きたい。コメントでも残していただけたらうれしいです。