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令和転生

昨年、デジタルハリウッド大学「イノベーター論」の授業にお邪魔することになりました。
友人である浅枝君の講座で、毎回、彼がゲストと対談して知見を引き出す体裁。テーマ「令和転生~20歳になって転生したらどうしますか」を、各ゲストにぶつける。
僕自身、振り返ると、全く異なる3つの人生を送っているので、テーマにぴったりだなと即時快諾。
当日はあっという間に時が過ぎ、伝えるつもりだったことがかなり抜けてしまったので、加筆修正してみました。

振り返れば、我々の世代のドグマは「成長」でした。
これからは、異常気象並みに、変化の幅も頻度も激しくなるため、機軸を置くことが困難になるでしょう。
従って、「変化を受け入れながら自分であり続けること」が大切になってくると思います。

転生の参考になれば。

ノストラダムスの大予言

転生の半生

表紙に個人史を描いてみた。
1984-2000年、2000-2016年と、16年サイクルを2周しており、現在3周目。
16年という期間は結果論だが、後付けすると面白く、ちょうど学校教育の期間に等しい(6+3+3+4年)。白紙の状態から一人前になる期間だ。
都度、それまでの財産を全く使わずに、新しい環境に飛び込んできた。
各サイクルは全く異質の世界であり、その各々の世界においても多彩な体験をしており、なかなかに刺激的な人生だった(いや、まだ生きている!)。

実は、これは偶然ではない。

「ノストラダムスの大予言」

「1999年7の月に恐怖の大王が降臨し、世界は滅亡する」
有名なトンデモ本だ。

令和の今なら異常気象による大災害がイメージされるだろう。平成なら恐竜を絶滅させた巨大な隕石が落ちてくる絵が浮かぶ。
ところが、昭和では、ほぼ全員、米ソの核戦争だと思っていた。
この時代の世紀末ファンタジーは、つまりヒャッハー達が跋扈する世界は、核戦争後を想像して描かれていた。

異常気象や隕石は人の力の及ぶところではないが、政治は人の仕業だ。
当時のスパイ、サスペンスものの下敷きも大方東西冷戦だった。

俺が止めてやる。
中二病を拗らしたまま受験時代に突入した小僧が妄想しても責められない。
外交官になろうと思った。

さて、首尾よく大学に入学するものの、米ソといっても英語圏の競争は厳しそうだ。
人生のスタートでいきなり私は日和る。
ロシア語を選択した。
この小僧はさらに日和る。
外務公務員試験、また受験かぁ。本当に時間を費やす価値があるか確認してやる。

日和るには日和るが、判断する際に身体は動かす。
まずはキャンパスにいる赤の他人の先輩達をつかまえる、茗荷谷に外務省の研修センターがあることも突き止めた。次々に街頭インタビューを決行。

・・・ん?
外交官って、なんだか・・・
スパイみたいな闇のヒーローとはほど遠い(当たり前!)・・・
ダサい。。

要するに勉強しない大義名分が欲しかっただけかもしれないが、ツキが落ちたように外交官に関心がなくなった。ご縁が無かったようだ。

入学した春に目標がなくなり、ただただ、ぼぉ~~~っと過ごした(勉強しろ!)。

何かおもろいことはないものか。なんとかお役にたてないものかと何年かぶらぶらしていたら、レーガン、サッチャー等、気鋭の政治家達が経済にフォーカスした政策を展開し始めており、彼らの主要な取り巻きには財界出身者も多いことに気が付いた。
東西冷戦は経済においては決着がついており、資本主義一本化。さらなる市場経済原理主義の大行進が始まろうとしていたのである(目下は行き過ぎた資本主義への反省期、結局歴史は振り子運動なんですね)。

「人生の基本計画としての転生」

なるほど。
経営者として成功し、その知見、ネットワークでお国に貢献すればいいんだ。

プランができた。
まずは修行期間。最も激しく、厳しい会社で鍛錬を究めよう。
そして、知力、体力、気力が最も充実するであろう40歳になったら経営者に転身する。
成功を果たしたら、次に政治家に転身して、粉骨砕身尽くそう。
何をすべきかはその都度考えればよい、道筋だけ決めた。

転生自体をプランにしてしまった。

80日間世界一周

「私の履歴書」

1.野村証券サラリーマン
 ・広島支店(個人、中堅企業向け営業)
 ・総合企画室(社長室、新規事業・社内改革等企画万般、大蔵省窓口、株主総会事務局)
 ・在ワルシャワ日本国大使館(証券業界第一号として外務省に転籍。2年 後、野村に再入社)
 ・企業調査部(証券アナリスト)
 ・事業法人一部(上場企業向け営業、ファイナンス、M&A等)
 ・主計部(主計一課長として管理会計統括、リスクマネジメント補佐)

2.ゲーム業界経営者、業界代表
 ・スクウェア・エニックス社長(振り出しはスクウェア社長)
 ・コンピュータエンタテインメント協会長
 ・経団連著作権部会長

3.若手の経営する企業数社の社外取締役、アドバイザー

3つの世界で生きたこと自体、珍しい例だと思うが、それぞれの世界においても、滅多にない多様な経験が楽しめた。
勿論、1、2の当時は「楽しむ」などという余裕は微塵もなかったが、なんだか、こういう言い方すると好感度が高いらしく、迎合してみました!

80日間世界一周

話を戻すと、野村証券時代は、経営に近い部署と超現場との往復。職種の観点で言えばトレーダー以外は概ね経験できた。
実は証券会社では、一分野にしか従事できない場合がほとんどである。
野村においても同様で、経営層への切符を入手した場合のみ、それ以降、にわかジェネラリスト育成コースをサササッと異動して回る。つまり、実働部隊としての実績は、大部分の役員は、一分野でしか持っていない。
私の異動経験がなぜ奇跡的に恵まれていたかは謎だ。
しかも、部署を異動する毎に、業界トップランクの人材が必ず近くにいらした。
やっぱ、しっかり学べとの天の声だなぁ、精進してお役に立たねばと、しみじみ思った(本当です…)。

ゲーム会社時代も経営者として全局面を経験することとなった。
瀕死の危機からのターンアラウンド、M&Aを柱とする成長局面、環境変化を踏まえての構造改革、また、これらと同時並行で実行した各種新規事業の立ち上げ。
この時代の知見、実績で次に進もうと思っていたので、とにもかくにも「再現性」を重視した。
いついかなる環境でも成果が出せるように鍛錬したいと考えていたので、たまたま全局面に対応せざるを得なかったのは、まさに僥倖だった。
やっぱ、しっかり学べとの天の声だなぁ、精進してお役に立たねばと、しみじみ思った(本当です…)。

しかも、世界的な時代の流れに、これまた偶然にも私の転生は沿っていた。
私が外交官に興味がなくなった時から、世界は大きく市場化に舵を切った。そのタイミングで、私は資本主義の権化のような野村證券に入社する(ベルリンの壁が壊れた年の翌1990年、旧東側に外交官として赴任するとのおまけまでついた)。
次に、行き過ぎた資本主義に疑問符が待たれ始め、また技術的にはIT、インターネットの革新が主流になろうとしていた時期から、IT、エンタメのど真ん中のコンピュータゲーム産業に身を置くことになった。
さらに、旧来の権威が失墜し、個人に光が当たるようになったちょうどその頃、大手企業からベンチャーに関わることにした。
日本の位置から見れば、1979年学生時代の「Japan as No.1」から、1989年バブル期「NOと言える日本」で絶頂を迎え、以降「失われた30年」を経験するというジェットコースターの40年間。

各々で何を学んだかは、第二弾で書こうと思う(おそらく)。
本稿では、変わり目と総論を記す。

サヨナラだけが人生だ

異世界への転身は、全て自分で選択してきた。
偶然のきっかけがあったわけでも、元の世界から追われたわけでもない。
自ら進んで、居心地のいい場所から、きっぱりと出ていった。

野村証券への就職

スタートは修行場所の選択である。
見極めには緊張した。

当時は、昨今の若者に言ったら刺されそうなくらい売り手市場だったが、受け身でいてはならない。単位はほとんど取得していたので、5月から活動を開始し(勿論、就職協定違反です)、マスコミからメーカーまで業種を問わず、50社以上企業訪問した。
最も仕事が厳しい企業。激変する業界にあってその業界をけん引し世界トップになる可能性のある企業。大きな仕事ができる企業。
これが選択基準だが、学生風情に該当する企業がわかるはずもない。できることと言えば、とにかく朝から晩まで身体を動かすことだ。

結果、金融証券業界に巨大な地殻変動が起こっていることが分かった。

業界の代表格である野村証券と日本興業銀行に絞り込み、各社とも10人以上の大学OBと会った。
議論、飲み会だけでは飽き足らず、ある先輩には家庭訪問までお願いした(奥様、その節はお世話になりました)。

ところで、当時は、野村證券 vs 住友銀行という、ハブとマングース的な戦い(えーっと、通じていますかね?)としてメディアが演出していた。
野村は、野村モルガン構想、中期国債ファンド大躍進と、とにかく、攻撃側の急先鋒で歌舞きに歌舞いていた。
他方、守勢の銀行側は、興銀も一角ではあったが、住友ほど目立っていたわけではない。
どう観ても銀行なら住友に分があったが、同行が最後の選択肢に残ったのは、私にとって東大の象徴だったからだ。

野村は学歴無関係、むしろ東大出は逆差別される印象だった(最近は高学歴みたいだけど)。
もともと授業もまともに出ていなかったので大きなことは言えないが、野村に就職するのは、私にとっては東大を捨てることだった(書き忘れていましたが東大法学部出身です)。

興銀の役員室。取締役さんとの会話。
私「野村は情報資本主義で時代をリードすると掲げていますが、興銀はどんなビジョンが?」
取締役「面白い言葉だね。経済学をご存じないんだろうねぇ」と嘲笑。

私は、こいつら死ぬな、と直感した。

この時の野村への信頼は単なる感覚だったが、入社して、情報資本主義が空虚なバズワードでない事が確認できた。
40年前の話である。
地銀、信金、信組に無料で野村の端末を提供。その端末では、各種経済情報にアクセスできるだけでなく、自社のポートフォリオ管理、金利シミュレーション等もできる。金融機関の財務担当者は、嬉々として自社保有銘柄をインプットした。
野村は、情報のバーターで、腹の中に、巨大で排他的な債券市場を得たのである。

私は「学歴としての東大」と訣別した。

アホみたいに些少な事例だが、きっちり積み上げていくことで、よりシビアな判断ができるようになる。
ポイントは戻らない事だ。

スクウェア移籍

40歳になったら経営者に転身しようと考えていたものの、野村証券の経営の一角、野村グループ子会社の経営者になることは、もともとは、私の中では最も想像しやすい可能性であり、野村を辞めるのは、どちらかと言うと極端な選択肢だった。
入社当時は「キープヤング」(ちと気恥ずかしい単語w)を旗に、40歳取締役就任が珍しくなかったが、私が30代になる頃には既にその神話は壊れていた。
また、野村が、事業会社に初めてマイノリティ出資した際、私をその会社の役員としては派遣してくれと依頼してみたが、当然瞬殺。JV提言も同じく沈没。
こうなれば、初志貫徹のためには野村を去らざるを得ないと自覚した。

しかし、40歳当時、厭らしい言い方だが、私は「切符をもらっていた」(と思う)。
野村を去ることに躊躇はなかったが、将来を期待されており、実際にそこそこのリソースを投下されている自覚がある中で移籍の活動をするのは裏切り行為とも思えた。

しかし、人生は面白い。
ヘッドハンターと連絡を取る等、一切積極的活動をしなかったものの、消極的には耳をそばだてていたのだろう。なぜかいくつか声がかかった。
ラジオみたいなものなのだと思う。
常時、この世界には様々な情報が飛び交っており、こちらが欲しい情報の周波数にチューニングさえすれば、その情報は確かにキャッチできる。
(これ真理。従って、自分は今何にチューニングしているかを自覚していることがとてもとても大切)

そのうちの一つがスクウェアだった。

経営者になるのを決めたのは20代前半だが、テーマを決めたのは30代だった。
私が40歳になるのは21世紀に切り替わる時だ。では、21世紀にならなければできなかったビジネスに関わろう。
具体的には、「社会を作る」(デジタル社会、インターネット)、「命を作る」(生命科学)のどちらかに関係する企業にしようと思っていた。

思い返せば、野村を選択しようとしていた1983年に「野村モルガン構想」がスクープされ、強く背中を押された。
40歳になり、経営者デビューを考えていた2000年にも、二つの号砲が鳴り響いた。
AОL・タームワーナー合併報道と、スクウェアの PlayOnline 構想だ(前者は後に空中分解し、後者は自ら建て直すハメになったが)。

よし、新興のインターネットを使って、もう一つの地球を創ろう!
スクウェアに決めた。

この頃、1990年代後半から、野村から優秀な人材が流出し始めていた。
多くは外資系証券・金融だったが、事業系にも3派あった。
ひとつが北尾さん率いるソフトバンク組。投資銀行系の非常に優秀な人材をひき連れて行った。
二つ目は、福島さん、青園さんが個人営業系をCSK(セガなども含まれます)に連れて行ったもの。営業企画部出身者達が移籍。
三つ目は、個人営業出身者が光通信に転職していった流れ。
ソフトバンク、CSKへは経営陣として移籍していき、組織立っていたが、光通信組はプレイヤーとしての個々の転職だった記憶がある。

私は単身飛び込むことにした。
武器は現地調達!
元スパイ志願者の矜持である..フフ

さて、会社勤めで築き上げる財産とは何だろう。
社内外の信頼だと確信する。
私の場合、ユニークな職歴に加えて、最後は主計部で管理会計の統括をしていたことから、役員、部長、主力課長まで。部署は国内外、文字通り全部署。当時の野村のネズミの抜け穴まで知っていた。権限に加え、個人的な信頼も得ていたので、どんな部署のどれほどきわどい秘密も明かしてもらえた。
特に意識することなくがむしゃらに働いていたら、大金持ちになっていたのである。

ただし、その信頼は、組織・コンテクストに依存し、人間の営みで実現する。
つまり、移籍すれば、これを一夜にして失うことになる。

財産を手放す際に、それを再構築できるか否かで考えてしまえば、結論は決まっている。そもそも同じものを作るなら捨てるのは無意味だ。
やり抜きたい目的のために、この状態がプラスになるか否かを突き詰めて考えることとした。

信頼はコンテクスト・組織に依存する・・・
逆に言えば、この財産を活かそうとすれば、組織から抜け出せなくなると思った。
まだ目的からは遠い。
ならばキッパリ離れよう。

私は自由を選んだ。

スクウェア・エニックス離脱

2000年にスクウェアに移籍し、2001年社長になり再建を果たした後、2003年スクウェア・エニックスを設立、利益も順調に伸びた。2006年からは業界代表と、ここまではトントン拍子。
しかし、実際には2000年代後半からの10年間は、ポジティブに言えば大変革期、ネガティブに言えば業界の暗黒時代(誰も稼げない時代)だった。
もがきにもがいたが、2011年、一度地に落ちる。
こんなところで死ねるものかと思いつつ、身体は壊すは、弱音は吐くわでドン底。数か月で持ち直し、構造改革は軌道に乗り始めるのだが、それまでは、我ながらポンコツだった。
ある社員が言った。「和田さんが責任を感じているのもわかりますから、何をしても構いませんが、我々を見捨てるのだけはやめてください」
この社員のキャラで内なる声を書けば「愚痴垂れ流してんじゃねぇぞ、このタコ!」というところか。
目が覚めた!と終わらせるほど単純ではない(いや、感謝していることに偽りはないですよ)。
額面通り、「見捨てない」が責任の下限だと理解した。

2012年末まで、着手して2年間、構造改革は確実に進捗した。
ところが、2013年春、スリップダウンで赤字転落の可能性が見えてきた。
ここまで出来ているのにこれか。
天の声だと思った。
2011年は経営者としてタフだったが、2013年は天から人生を否定されたようで個人としてきつかった。

私は社長になった時、退任の条件を決めておいた。
1:持続的成長ができる企業として確立した時(事業の確立 and/or 後任の育成)
2:あるいは1円でも営業赤字を出した時

構造改革は順調ながら、あと2年かかる。しかし、自分に対する約束では、赤字は退任だ。
これまでやりたい放題やってきた。人事も厳しかったと思う。ここで自分だけ特別扱いしたら、死ぬまで人の目を見て話せない。
そう言えば以前、社員から言われて「見捨てないこと」が最低線と認識したっけ。
面倒はみるよ。

誰が何を言おうと社長は退任することにしよう!
2013年退任時に、その後2年間の黒字ネタは準備するとともに、同じく2年間で構造改革を完成させ、次の10年の利益構造を完成させる。
これで行こう!!

2013年に社長を退任し、新たな事業の柱を確立し、2016年にスクエニから完全に離脱した。

結果としては公約(ではなく自分との約束)は果たせた。

・・・

しかし、これはきつい決断だった。
それまでの転生経験がなければできなかった。

おそらく社長を続けていたら業績は相当伸ばせていただろう。仮にこの時にうまくいかなくても、うまくいくまで続けるから成功する自信はあった(実際のところ、この時期に打ち出していた方向と手段が正しかったことは後に何度も検算できた)。
しかし、外面(そとずら)が変わっていただろう。
私が経営者デビューした際に、「40代プロ経営者」がもてはやされたが、道を外さないために、この視点での取材は拒否し続けた(私は高潔じゃないからね)。
2010年以降、ありがたいことに優良企業、諸機関からの打診もいくつかはあったが、会社の構造改革を優先させ、全て断った。
仮に、自分との約束を破棄して社長に居座り、事業に成功していたら、歯止めが効かなくなっていたと思う。
70過ぎまでは正気でいられる自信はあるが、その後、ドンになり、何十年にもわたって晩節を汚し続けることになったであろうとゾッとする。
私を、断固として退任+事業再建に向かわせたものは、事業上の筋論よりも、この強い恐怖心が勝っていたのが本音である。

私は自分の穢れを斥けた。

転生心得

さて、私の人生第三周目が、何を考えどこに向かっているかは後述する。

ここで、一旦、転生心得をまとめておく。

1.転生タイミングを決めておく

・どの時点でも「離れられないノッピキナラナイ事情」がある。
風来坊みたいに人生を送るなら別だが(否定してませんよ)、がっつりコミットして尚転生で活性化しようと思えば、きっかけをあらかじめ設定しておかなければ踏み込めないと思う。
・私でいえば、40歳経営者デビュー、二つの社長退任条件が、それにあたる。

2.とにかく早い時期に一度転生しておく

・若いうちに経験しておけば、70代、80代になっても何度でも転生できると思う。逆に、初体験が50歳であれば、超人的な気力が必要になると思う。
・お勧めは35歳までに1回かな(これは単なる印象なので適当に読み流してください)。

3日、3か月、3年

出方の次は、今度は入り方。

転生した世界で生きるには、特に最初が肝心だ。

野村証券在籍時、行動様式及び知的バックグラウンドが全く異なる部署に何度も異動することで、コツを体得できた(転校生経験者はそれ使えばいいと思います)。
誰かから教わったのか、私のオリジナルなのか記憶がない。全くのオリジナルではないだろうが、かなり私流になっていると思う。

組織に入り、馴染み、理解し、動かすまでの段階を、以下のように考える。
3日:ベースキャンプ設置
3か月:内実を把握し3年計画策定
3年:計画の評価が出来るところまで実績が示せていること

ベースキャンプ設置とは、その後の活動のための足場を固めること。
物理的な場所や組織ではなく、繋がっておく人物を確保するという意味だ。
事後的に相手を変えていっても構わないが、とにかく3日以内に、誰かインサイダーと通じること。
他の何よりまずはこれを優先しなければ、当該組織の土地勘が働かず、その後の活動が全て上滑りになる。

3か月以内に組織に根を下ろす。
故植村直己(冒険家)はエスキモーと仲良くなるためにトンボ返りを見せていたそうだ。私の場合、アルコールが武器になった。
くだらないようだが、本業で貢献できない段階で広く存在を示すには、一芸持っていると楽だ。
3か月、ただ無為に過ごすわけではない。
目標として、3年計画の策定をおくと良い。
その組織の特性、抱えている問題が理解できなければ計画が策定できないから真剣に入り込む。また、この時点で仮説を持つことで、その後の行動の軌道修正が効率的になる。
ここで、3年計画につき補足する。
3年「目」に結果がわかる3年間の計画ではない。
計画を実行し、振り返り、次の計画を策定するまでで3年だ。従って、計画は2年以内で実行できるものにする必要がある。
属する組織やプロジェクトのサイクルと合致していればラッキーだが、ほとんどの場合、そうはいかない。そもそも期間が異なるだろうし、一致していても、始まりのタイミングで、ぴったりこちらがスタートできるとは限らない。
「自分が」何を達成するかの計画だ。
策定したら、3年間、がむしゃらに行動する。
軌道修正はどんどんして構わない。
計画は軌道修正の道標でもある。

新環境に入った時の振る舞いについては、以前にも触れたのでご参照ください。

Connecting the Dots

以上、自身の経験談を踏まえ、転生における異世界の出入りにつき述べてきたが、もう少し一般的に、つまりは転生に限らず、うまく成果を上げるコツと私が考えているものも書いておく。

とにかく世の中のお役に立ちたい。
これが私の根本的なモチベーションであり、そのためには広く経営能力を活用して貢献しようというスタンスだ。
能力の「再現性」については、こだわり続けてきた。
持続的に貢献し続けるための知恵につき、自分なりの考えを述べてみたい。

ここで、皆んな大好きスティーブ・ジョブズにご登場願う。
誰しも知っている伝説のスピーチだ。

以下は私の考えをお伝えするためのウォーミングアップであり、「ジョブズ神」の解説じゃないから、絡まないでくださいね。

ジョブズは、ハングリーであれ、愚かであれ、と言っている。
これは無闇にとびかかれという意味ではない。何事にも囚われるなということを彼独自のレトリックで言っているのだと思う。
ハングリーは身体が空っぽの状態、愚かは頭が空っぽの状態。
囚われないこと、これこそが彼の自由の信条だ。
そしてハングリーであることは満たされるための強烈な駆動力になりうる。頭が空っぽなのも同じく激しい駆動力になる。

真空の力。

では、囚われない状態でどこに進むか。
スピーチからは、何でも手を付けておけば、後で繋がってくると言っているように聞こえる。
これと、ハングリー、愚かと合わせて、勇猛果敢にあてずっぽ、後は運に任せろ、それがシリコンバレーのドリームだ!と話している者もいるが、そんな単純ではない。
オンラインサロンでこんな話をされたら、ただちに退会すべきだ。

彼は彼固有の世界観を既に持っている。
虚心坦懐のぞむ達意の人物なので、自らの声に従えば後で繋がってくる。
スターウォーズのフォースに聞け、あるいは、ブルースリーの Don't think. feel! とも通じる(高尚な例でなくて申し訳ない)。
このような発言は(バカ者でなければ)、何か大きな流れ、世界の理のようなものを信じている者から出る。
カリグラフィはその表れの些細な一つに過ぎない。

筋の良い手を打つ

私はよく囲碁を例に出して説明する。
筋の良い手を打っていれば、次第に石と石とが効いてくる。

ポイントは次の2つ。
1.選択肢を減らさない打ち手
2.方向が正しい打ち手

1.選択肢を減らさない打ち手

個々の石などいつ繋がるかわからないため、時が来るまで生き延びなければならない。
1は、退場しないための、超短期(⊿x)の次の一手に関する心得だ。

相手(or 環境)の持ち点が3、自分が2だとする。
次の一手は、差し引きが、現状のー1より減らなければ可。
自分の点が上がれば言うことはないが、相手が減ってくれるだけでも良い。

一手一手、下手を打たないことで、生存確率が上がる(それでも確率でしかないが)。

2.方向が正しい打ち手

不確実性の高い実世界において地図を得ることは不可能と思った方が良い。
しかし、磁石は持つべきだ。
そして方向は死ぬ気で探す。

いつ目的地に到着するか、何がきっかけでそうなるかは読めない。
しかし、「その方角」に向かっていないことには永久に収穫はない。偶然の神も、手をさし伸べようがない。

大きな流れを感じている点では、私はジョブズと同類だ。
しかし、私の場合、胸に秘めておくだけでは思いを維持できないので、もっと言語化する。宗教のたとえでいえば、曼荼羅を作るなり、経を書く必要があると思っている。

大局観。事業でいえばビジョンを組み立てるのはその意味だ。
利点は2点。
1.自己の行動をシャープにできるし、他者も巻き込める
2.言語化しておけば、事後的に修正できる

ここで曼荼羅や経と表現した点に注意してほしい。
モデルのようなカチッとしたものは作らない方が良い。それが、大局では強みになる。
中途半端に頭が良いと、モデルがあれば、モデルに現実を当てはめる本末転倒をやらかしてしまうので、うまくいかない。
あくまで流れ、つまり、型になる前の雲のようなものを言語化できたらいいと思っている。

別の観点で、1、2を述べる。

1は、注意深く生きていけば、経験を重ねるほど上達する。感覚の鋭敏ささえ失わなければ老齢でも能力発揮できる。中国の達人のイメージ。
他方、これが拙いと突然死を避けられないので、一刻も早く身に着けるべきだ。

2のビジョンについては、持つことは重要だが、作る能力は必須でなはい。ビジョン創造能力は才能に依存し、経験によって身につくとは限らない。
幸い、この能力がなくても死にはしないので、誰かを指標とすれば足る。
通常は、こちらの知恵者の方を仙人のように思いがちだが、この分野の達人は若い頃から能力の片鱗は見え、その後さほど力は伸びないのではないか。もっとも範囲は広がるかもしれないが。

1,2が噛み合うと、環境が味方になってくれると思われる。
自らも大きな流れの一つとなり、世界にわずかに影響を与える。
世界の流れる方向に張っているので、自らへの助けとしてフィードバックされる。
そして動いた影響がまた世界にわずかに表れる。
この循環なのではないか。

二つの誤算

20代前半のプランを、(ハードシングスの末とは言え)着々とこなしてきたが、二つの誤算が生じた。

一つは政治への絶望だ。
スクエニ経営で多忙を極めていた際、政治改革は着々と進行し、民主党政権が誕生した。
・・・中略・・・
民主党が果てたことによって、(詳細は述べませんが)変革の難易度が格段に上がったと感じた。
30歳に戻れるなら、30-40年計画で飛び込むが、もうそんな年齢ではない。
プランしていた政治家としての最終章がなくなった。

もう一つは科学の進歩。
聞くところによると100歳以上まで生きてしまうというではないか(聞いてねぇぞ!)。

行先見失った上に、試合延長かよ!

3周目の始まり

スクエニからの突然の離脱は、想定外だった。
2011年地に落ちて、会社を次のステージまで持ち上げ、後継を育成するまでは自分でやるしかないと、ようやく割り切ったところだった(どの道、政治家の選択肢はなくなっていたしね)。
ところが、2年後、まさかの赤字転落。
自分との約束を果たすために、社長退任を最優先に考え、その次にどうするかなど検討する時間はなかった。

貢献できるスキルは経営能力なので、大企業のトップも考えてみた。
極めて自然な流れだったが、自分でも驚いたことに、全く興味が持てなかった。何社かに臨んだが、どうしてもそれらの会社の本業に没入できる気がしなかった。
また、振り返れば、私の経営者デビューは40歳だった。
現在40代の青年のデビュー戦を、私がひとつ奪うことになりはしないかとも思えた。

どのような職業かは不明だが、とにかく若者をサポートする側に回ろうと、スタンスだけは固めることにした。

とりあえず転生先は決まった。

一隅を照らす

2015年あたりから徐々に若手にアプローチするようになり、 今お付き合いいただいているのは、95%以上、スクエニ離脱後に付き合い始めた人達だ。

ご縁で、社外取締役になったり、アドバイザーになったりしているが、私の今の本業は、派遣経営者だ。
私が派遣元で、ご縁ができた若手が経営する会社に、私を派遣する。
何か問題があれば、立場を逸脱してどっぷり中に入る。

6年この世界に住んで振り返ると、20歳そこそこの小僧が描いた転生プランが前提としていた世界観が終了したことを感じる。

それは、何本か確かな太いレールが走っていて、どれも目的地が同じという世界。
そのレールを乗り替えることで効率よく上り詰め、影響力を持った状態で世の中のお役に立とうとする転生プランだった。

現在は、流動化が進んでいる部分と頑迷固陋な部分とが共存する、冷え固まる前の溶岩のような様相だ。
確かなことは言えないというのが、唯一言える確かなことなのかもしれない。

これからの若い人達の転生は、私の頃と違って、もっと状況依存になるのだろう。その意味では、私はモルモットの役は果たしたい。

この世界で、もうサヨナラは言わずに自分を溶け込ませていくか、再度転生するのか。

寿命も延びて、一生4周とすれば、後半に入ったところだ。
まだ、いやになるほど時間はある。


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