日本料理の食卓作法Ⅰ―A「続・日本料理の成り立ちと大別」
2006年1月29日 (日)
今日は旧正月、旧暦1月1日の元旦です。
七十二候では「鶏始乳」(にわとりはじめてにゅうす)、「鶏が雛を孵すために、卵を温めだすころ」という意味です。
旧暦で生活していたころの日本人は、今とは比べ物にならないくらい、もっともっと季候に敏感だったのでしょう。
また、そうでなければ、農耕民族、採集民族としての生活が成り立たなかったに違いありません。
TVニュースで、蝋梅(ろうばい)が満開になったとの話題を見ながら、
「ああそうか、蝋梅って本当は今頃が満開なんだ。昔からお正月の彩りとして、小さい鉢植えや枝ものの生け花を飾るのは、だからなんだ」
などと、あらためて思ったりして…。
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日本料理食卓作法 …昨日の続き…
<A.日本料理の成り立ち…続>
古い「大和言葉」で、稲の神様は「サ」と呼ばれました。
そして、食べ物のことを「ケ」と言ったのです。
そのことから、食べ物を入れる器を「笥」(ケ)と呼ぶようになりました。
万葉集
「家に在れば笥に盛る飯を草枕 旅にし在れば 椎の葉に盛る」
稲の神様には、お酒が捧げられました。
これにはいろいろ説があるようですが、おかゆ状の米が偶然、天然の酵母菌によって発酵し別の物になる不思議が神様のしたことだと考えられたこと、そしてまた、目に見えない神様は、人間と同じような蒸した米は食べられない、と考えられていたことなどが理由のようです。
ですから、神様「サ」の食物「ケ」で、「サケ」(酒)と呼ばれるようになったわけです。
奈良時代になると中国から、揚げた小麦粉のお菓子「唐菓子」などが入ってきます。
これは今も、奈良や京都の古いお寺で、当時そのままに「お供え」として作るところがありますね。
そして国内では、塩以外の調味料の原型「醤(ひしお)・未醤(みそ)・豉(くき)」などが少しずつ生まれてきつつありました。
また、広がった仏教の影響で、肉食を避けるようにもなってきます。
平安時代になると、貴族の間ではかなり贅沢な食事をするようになりました。
ある日の有力貴族の食卓には、焼いた鮎、鯛の膾(なます)、牛乳を煮詰めて作った蘇(そ)、甘葛(あまずら)で煮た栗など、十数種類の食べ物が並んだそうです。
一説によると、有名な「藤原道長」は、美食が祟って糖尿病だったとか…。
時代が下がって鎌倉時代、それまでは1日2食だった食事が、1日3食になってきます。
灯明用の油が一般にも広がり、就寝時間が遅くなったからだと言われています。
室町時代には、調味料として「味噌・醤油・砂糖」などが一般にも普及してきます。
安土時代には、ポルトガルから「テンプラ」「カステラ」などが入ってきました。
桃山時代には、武士の間で「茶の湯」が流行し、茶懐石の料理が生まれます。
そして日本料理は、続く江戸時代の400年間でほぼ形式と料理法が確立され、完成時代を迎えるのです。
また、細長い国土のため、日本は東西でも料理に特色があり、東は江戸を中心とした「武家社会」の料理、西は大阪・京都の商人を中心とした「町人文化」の料理が発達しました。
江戸時代以降は、開国による欧米文化の流入や明治維新による東西の交流、武家社会の崩壊、そして天災である大震災などを経て、現代へとつながるわけですが、そうして現代に形として残った「日本料理」を大別すると、次の6つになります。
・本膳料理
・会席料理
・懐石料理
・精進料理
・普茶料理
・卓袱料理==================================
「日本料理」と聞いて、みんなどんな料理を思い浮かべるのかな?
温泉旅館の豪勢な夕食、回ってたり回ってなかったりのお寿司、すき焼き、ウナギに牛丼、焼き鳥なんていう人も居るかも。
その他にも、トンカツ~♪とか、カレーライスっ!ていう人もいるかもしれない。
いやぁ、やっぱ母ちゃんのメシでしょ!、という人だっているよねきっと-。
どれもみんな、ある意味で「正解」だと思うんだけど、でも↑で書いたみたいな料理も、大切にして受け継いでいきたい、とつよく思う今日この頃…。
なぜなら、料理は「文化」だからね。
命をつないでくれる「食べ物」に根ざした「文化」を、忘れたくないなぁ…!
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