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【フリースクールなど】多様な学びの場はこれからこうなっていくんじゃないかなぁという予想メモ
2025年もあっという間に2か月が過ぎ去ろうとしており、新年度もすぐ間近。
今年は新型コロナウィルス流行開始から5年。
教育の場の在り方に大きな変化が起きて以来の節目の年でもあります。
今回の記事では、「この国(もちろん日本)の民間フリースクールを始めとする子どもの多様な学び場は、これからどういう方向に向かうんだろうね?」という未来予測を、小さなフリースクール運営者があくまでも超個人的な試みとしておこなってみたいと思います。
もっと砕けた言葉で表現すると「フリースクール業界2025/SSのトレンドはなんやろ?」みたいな感じです。
日々子ども達と向き合う中で、現場の先生たちは今の子ども達には何が必要だと感じているんだろう?
フリースクールの支援のカタチは、今後どう変わっていきそうだろうか?
ということについて、最近アタマに思い浮かんでいる言葉たちを、あまり難しく考えずにメモ書きしていきたいと思います。
▽フリースクール2025未来予測という挑戦
こんな未来予測を立ててみたくなった理由は、「コロナ以降の5年間で公教育が大きく変化していったように、民間のフリースクールや子どもの学び場の支援の在り方も変化した」という実感があるからです。
コロナ流行直後の2020~2021年は、当時既にフリースクール運営者であった私のもとに「フリースクールや子どもの居場所を立ち上げたい」という相談がたくさん、もう本当にたくさん寄せられた時期でした。
そして、私にそういった相談を寄せられた先生方のおよそ8割が実際にフリースクールや子どもの居場所を立ち上げました。
さらに、当時居場所を立ち上げた先生方のおよそ9割が、2025年2月現在においても引き続き、居場所運営を継続されています(本題とはズレるけど、これだけ継続されていることもかなりスゴイことですよね)。
ここで注目したいことがあります。
各スクールが立ち上がってから、およそ5年。
当時とまったく同じ支援を続けている支援者って、あまりないんですよね。
私がその支援の内情を気軽に教えてもらえるフリースクールや子どもの居場所づくり団体は現在ざっと10くらいあるのですが、その10の団体さんだけに限っても、先生方は日々子どもの様子や成長に呼応するように、支援内容も変化させているのです。
そして、各スクールの変化を総合的に見ていくと、実はその変化は単に子ども達の成長だけに応じているのではなく、それと同じくらい、その年代年代の社会の問題に対する解決の試みという側面をもっていたり、もっというと各支援者それぞれが抱く社会への挑戦や、ときに静かなる抵抗のようなものまで感じられます。
私も支援を変化させ続けている一人です。
私が運営しているおうちフリースクールでぃありすの支援の柱は「丁寧な学習支援」と「進路実現に向けた責任あるサポート」としており、それは設立当初から現在にわたってずっと変わりません。
しかし、上記2本の柱をより強固に支えるために必要な支援(柱をぐっと補強する金具みたいなものかしら)の在り方については、やはり少しずつ変化してきました。
そして私がおうちフリースクールを再開するこの2025年春は、これまでになかった一番大きな転換を試みようと思っています。
私にとっては勇気のいる転換でもありますが、それでもこれまで14年間続けてきた教育の営みの蓄積が裏付けとなり「きっと子ども達にとって良い結果になる。勇気を出して変えてみよう」と思うに至った方策です(方策詳細については記事の後半でお話します)。
という具合に、公教育と同様、フリースクールも世の中の流れや、その年代年代の子ども達が背負うものに応じて変化しているように思います。
そしてその変化が、最近の過去5年間においては特に顕著であり、私はその点に深く関心を抱くようになりました。
そんなわけで、今回の”フリースクール2025未来予測”に至ったわけです。
▽【はじめに】超現場主義の断り書き
繰り返しになりますが、私は学者でもなんでもない、ただのフリースクール運営をナリワイとするフツーの主婦に過ぎません。
これから書き述べるすべての事柄は、あくまでもイチ素人の肌感覚から生み出された言葉であり、データ的裏付けや検証などはほとんどありません。
もちろん私のような素人でも「これくらいはわかるだろう」というような情報についてはなるべく数的根拠を示しながらお話したいと思いますし、偉大な先生方が執筆された文章には人並みに目を通していますので、そういったものから得た知識や見解は無意識に私の文章にも反映されているとは思います。
が、まずはこれから書く文章が「あくまでも個人のナリワイへの興味関心が飛躍した結果生み出されてしまったもの」程度のものであること、ご承知おきください。
でもさ、こんなふうに一般ピーポーが熱を込めてナリワイについて自由に論じまくれるというのがnoteの良いところだと思うのです。
ご興味をお持ち頂ける方におかれましては、これから展開するマニアックで偏りまくった、しかし「現場の人間が肌でビシビシ感じているあれこれ話」にお付き合い頂けますと幸いです。
特に、フリースクールやオルタナティブスクール、子どもの学び場づくりに取り組んでいらっしゃる先生方にお読み頂き、またコメント欄にて先生方が今の支援において感じられているところについても情報共有して頂けると、大変嬉しく存じます。
▽新型コロナウィルスが流行し始めてからの変化
それでは早速あくまでも私個人の肌で感じた変化の流れだけでもザっと記録してみたいと思います。
2020年の新型コロナウィルス流行により起きた教育の場における変化。
具体的な事例を思い出してみると、感染拡大を防ぐための一斉休校がありました。
登校に限らず、子ども達の外出が厳しく制限され、外で体を動かす事ができない日々が長く続きました。
休校中の学習の助けとして、オンライン学習が試行錯誤され始めました。
もともと急な増加傾向にあった不登校の子ども達の人数が、一斉休校明けからさらに加速して増えました。
(参考:文部科学省調査https://www.mext.go.jp/content/20241031-mxt_jidou02-100002753_2_2.pdf)
そしてそれは特定の地域に特有の現象ではなく、全国的に見られた傾向でした。
コロナ禍に様々な事柄においてオンライン利用が推奨された結果、便利なことが増えた一方で、子ども達においては視力の低下や昼夜逆転、ネット依存、ゲーム依存の問題について新聞メディアがこれまで以上に多く取り上げるようになりました。
▽2025年春からフリースクールには何が求められるか
前項で述べた社会や子ども達の変化は、当然同時進行でフリースクール等にも大きな影響を与えていきました。
そう、”超”同時進行的でしたね。
例えば、「一斉休校中に未習事項の宿題が課されたが解き方がわからず(そりゃそうだ)、真面目な子ほど一人で抱え込んでしまった結果休校明けから不登校になってしまう例が多発」という朝刊記事を目にしたその日に、まったくそのとおりの状況に陥ってしまった生徒さんのご家庭から連絡が入る。
とか
「これまで立ち止まることなく学業や部活動に死に物狂いで取組んだり、家族からの期待に応えることに精一杯だったが、外出自粛期間に突然、心の中の何かがプツンと切れてしまった」という知人やその子供の話を聞いた夜に、ネットニュースで同様の心情に深く悩む若者が急増していることを知る。
とか。
それまでは毎朝、新聞の様々な見出しを見ても「へぇそんな事故があったんだ」とか「都会は事件が多くて怖いなぁ」と思うばかりだったのですが、2020年ほど紙面に書かれていることが現実の事象とリンクしている実感をもったことって、それまでになかったように思います。
▼コミュニティ活動の観点から生み出されたる子どもの居場所が増える
ちょっと話は変わりますが、先日、子どもの居場所づくりをおこなう複数の民間団体のお話がきけるというフォーラムに参加してきました。
登壇された方々全員の共通点は”社会福祉の観点からそれぞれの居場所運営を行なっている”という点でした。
ご存知の方も多いかと思いますが、私は教育の畑の人間なので「社会福祉の方が一番大切にするポイントってやっぱり教育の人間とは違うんだな~」「子ども支援、そういう着眼点が濃いのはさすが福祉の方々だな~」などと、新鮮に思うこと多々でした。
で、当日の参加団体さんのお話を聞いていておもしろいなと思ったことがもう一つ。
それぞれが運営されている”子どもの居場所”と、その居場所が置かれている地域、もっというとそこに住む子どもや家庭との間の垣根を低く低くしたいという思いが強く伝わってきました。
どの社会福祉支援者さんからも、「子ども達には、地域生活・実生活の延長の場として我々の取組みを利用してほしい」という願いが、言葉の端々から伝わってきました。
実生活の延長の場としての子どもの居場所がどんなものかをイメージするためには、一般的な公立学校と比較してみるとわかりやすいかもしれません。
公立の学校というのは、まず重厚で頑丈な正門があって、そこに通える子どもは年齢や住んでいる場所等によって厳密に限定されています。
また、チャイムによって独自の時間秩序が設定されているほか、学校空間の中だけで適応されるルールがあります。
公立学校は地域の中に存在してはいますが、子ども達にとっては普段の家庭生活の延長線上にあるものというよりは、むしろ身体的・精神的入出力を切り替えて学びに行く場所といえるでしょう。
私は、このような現在の日本の公立学校の存在の仕方について批判するつもりはまったくありません。
むしろ私個人としては、公立学校のように”家庭や大人の社会とは一線を画し、ときに非日常的でさえあり、独自の時間軸と秩序の中に身を浸す場所”というのは、大部分の子ども達(そしてかつて10代だった私)の心身両方の成長において大変重要であり、効率的であったように思います。
また、公立中学校教員を退職してフリースクール運営者になってから痛感するのは、”①公立学校にしか成し得ない種の教育がある”ということ、そして”②公立学校でしか成立し得ない、子ども対大人の関係もある”ということ、最後に”③公立学校には、ここでしか絶対に出会えない種の教育者たちが存在する”ということです。「一生かかっても超えられない」という絶望と「一生かけてこの先生みたいになってみたい」という野望を同時爆発させてくれるような先生です。
①~③のうち、フリースクール運営者になってからも努力可能な事柄については挑戦を試みましたが、今のところまだまだ越えられない壁のままです。
話を戻します。
この日お話をうかがった社会福祉がご専門の皆さん同様、「地域社会人として子どもの育ちを見守りたい」もっというと「地域子育て者のような立場で町の子ども達を支えたい」という思いを抱く人が、私の周囲に多くなっている実感があります。
考えてみれば、私がやっているおうちフリースクールの営みもそのような傾向のひとつと言えるでしょう。
自分の生活圏に「昼間学校以外の場所で勉強がしたい」と話す子どもを発見したときに「オバちゃんのうちに来なよ」って言ってあげたいがためだけに、わざわざ「おうちフリースクール」などという大げさな名前を名乗り、個人事業開業届まで作成し、名刺をつくったりしています。
正直生徒ゼロでもそれはそれでいいのです。
ただただ、世の中の子どもが「なんか気になる」というだけの気持ちで細々とスクール運営を続けています。
コロナ流行当初はビジネス(=金儲け)として設立されるフリースクールも少なくありませんでしたが、これからはもっとシンプルで、素朴で、社会福祉的要素を多分に含む子どもの居場所が増えていくと予想しています。
ちょっとドヤると、私はこの予想を今から10年前くらいから打ち立てて公言しています(当たったら褒めてね)。
また、そのような居場所を子どもや家庭も好んで利用する傾向が加速するのではとも思っています。
その理由は次の項目で。
▼コミュニティ=共同体再構築の動きは今、教育界隈だけのものではない
というのも、「コミュニティをつくろう」「共同体を再構築しよう」という動きは何も教育界隈特有のものではなく、今の社会全体に共通しているからです。
この現象に関連して個人的におもしろいなぁと思っているのが、大学や大学院で共同体(再)構築を学んだり研究する学部や研究室が随分注目され始めている点。
こういう学部や研究室は、私が学生時代を送っていた2000年代後半にももちろんあったのですが、絶対に今ほどの勢いはなかった。
しかも現在では、社会人の「学び直し」として、これらの領域が選ばれていることが興味深い。
20代後半から40代くらいの一定数の人々が、今なぜか「共同体」というキーワードに心を惹かれている証拠なのだと解釈しています。
そして私もその中の一人だと思います。
日々生活していて、なんか気になるもの。地域のこと。地域の子どものこと。
このような世の中の流れについて、哲学者の内山節先生はご著書の中で以下のようにお話されています。
いまの社会はじわじわといろいろな形で伝統回帰し始めています。
日本中でいま「共同体」とか「コミュニティをつくろう」と言われている。都市部でもしょっちゅう言われてますけれど、これも伝統回帰です。なぜならば昔の人たちは皆、コミュニティと共に暮らしていたのですから。
伝統回帰。
教育の分野でいうと、デジタルとか個別最適化だとか新しい学びのカタチとか分野だとかいろいろ持ち出されている一方で、確かに現場の支援者たちが胸を熱くして向かっている方向は、言って見ればこの伝統回帰の方面であるともいえます。
伝統回帰的子どもの居場所のイメージに近そうなものを私なりに描いてみるとすると、日本初の近代的学校制度である「学制」の中の学校像に対局するもの=幕末の寺子屋がそれにあたるのかな?と思います(あくまでも私のイメージです)。
寺子屋は、庶民の子どもが読み・書きの初歩を学ぶ簡易な学校であり、江戸時代の庶民生活を基盤として成立した私設の教育機関である。(中略) 寺子屋は江戸時代中期以後しだいに発達し、幕末には江戸や大阪の町々はもとより、地方の小都市、さらに農山漁村にまで多数設けられ、全国に広く普及した。(中略)
・庶民の子どもが学ぶ簡易な学校
・庶民生活を基盤とした
・施設の教育機関
・町、村、小都市…全国に普及
…ん?これ、令和の話かな?
寺子屋の教師は師匠(手習師匠)と呼ばれ、生徒を寺子といった。寺子屋の師匠の多くは同時に寺子屋の経営者でもあった。その身分について全国的に見れば平民が最も多く、武士・僧侶がこれに次ぎ、そのほか神官・医者などが経営する寺子屋もあった。
・師匠は平民が最も多く(!)
・神官、医者などが経営する寺子屋も
…やはり令和のフリースクールと酷似。
いま、民間教育団体界隈ににわかに起きている「伝統回帰」の流れ、なんとなくイメージして頂けたでしょうか。
▼民間の子どもの学び場の柱はいっそう”生活に根ざした学び”へ
私が「フリースクール等が伝統回帰的路線をたどっていくのでは」と予想するのは、学びの場=ハコの話だけにとどまりません。
学びの中身も、再び”生活に根ざした事柄”が求められ、また我々支援者もそれに応えていく形になっていくのではと考えています。
寺子屋は藩校のように東洋の古典などによって高尚な学問を授けるものではなく、庶民の日常生活に必要な実用的・初歩的な教育を行なう施設であった。寺子屋の学習の大部分は「手習」(てならい)であり、それに読物(よみもの)が加わった。
私が最近「いいな」と思うのは、我々教育に携わる人間だけでなく、世間一般にも「学力偏重社会の限界」とか「競争社会疲れ、そして虚しさ」という空気感や感情が、よりリアルなものとして共有され始めている実感があることです。
確かに10年前にも20年前にも「学力がすべてではない」という大人も少なからずいました。
だけど、令和の今ほど、強い実感を伴った言葉ではありませんでした。
「高学歴・高学力者、競争社会を勝ち抜いた人間が安泰に暮らせるという事実は当然のこととして」それでも、それ以外の人間も”何とかして”生き残る方法はあるよ、という程度のニュアンスに、当時子どもであった私の耳には残っています。
当の私も、まだまだ学力偏重、競争社会の色がビシビシに眩しい時代に10代を過ごしました。
それこそ「実家貧乏でも女でも生き抜くために勉強する」という必死の覚悟でガリガリ勉強していましたし(頭のデキ良くないのに健気でした)、実際、一生懸命勉強してよかったという強い実感をもって成人を迎えました。
だって当時の私にはそれ以外何もなかったんだもの。
平成のあの時代、必死こいて身につけた中のゲくらいの学力だけが、私の身を保障してくれる武器だったのです。
ところが令和を迎えた今、多くの大人が(そして学力だけがすべてだった私までもが)「学力だけがすべてじゃないよね」と本気で思うようになり始めました。
というか、そのように本気で考える大人の割合が随分増えたように思います。
むしろ、「学力しか伸ばしてもらえなかった子どもの未来」の危うさを、身を持って感じ始めた人も少なくないのだと思います。
先日訪れた社会福祉系の方々の実践の中でも、そのような雰囲気をひしひしと感じました。
各団体さんとも、教科学習以外の部分にこそ力を注いでいるような印象を受けました。
町の飲食店での職業体験や、畑づくりを盛り込んでみたり、町の本屋さんや商店などを居場所にして運営をおこなっていたりなど。
伝統工芸の師匠によるワークショップを開催している団体もありました。
また、このことは全国でフリースクールや子どもの居場所づくりを展開するほかの先生方の方針にも大いに当てはまります。
▼知性・品性・感性すべてが満たされるバランスの良い教育の場
そんな、学力偏重を脱却した新しい(いや、伝統回帰的だからむしろ古いの?)学びのカタチを、民間教育団体だからこそ提供していこうという風潮に、私自身も概ね乗っているような実感があります。
ただ、あくまで私が大切に思うのは”バランス”です。
教科学習に偏重し過ぎてはいけない。
けれども、教科学習を軽視したり、妥協するのもよくないと思っています。
教科書の中で”概念”として学んだことが、外の世界で初めて経験を伴った実体験として理解される。
反対に、外の世界で「あれはいったいなんだったんだろう?」と不思議に思っていたことが、友との会話や本の世界で出会った解説のおかげで言語化可能になる瞬間の開放感。
どちらも大切なのです。私にとっては。
▽おわりに
というわけで、今回の記事では、私が個人的に思う「2025年の子どもの居場所、こうなっていくんじゃない?」予想をツラツラと書いてまいりました。
というか、ただの思考整理メモですね笑
作品としてではなく、自分の頭の中にあることを整理して、あわよくば同業の方のアイディア発掘のヒントにしてもらったり、あるいは意見交換の起爆剤になったらいいなと思って書いてみました。
試験的に。
noteだから許して下さい。
本当は、結論として「今年自分のスクールはこうしたい」っていうところまで書きたかったんだけれど、10,000字超えるとさすがに色々とアレなので、また別の記事にしたいと思います。
2025年のみなさんの居場所づくりの取組みも、また素晴らしいものとなりますようにー!
それではまた!
※画像はshinsukesugieさんの作品をお借りしました。
【この記事を書いた人】