無花果のカペリーニ、Billie Holiday, Come Rain or Come Shine
男は左手の平で柔らかく無花果の丸い実を包み、右手の親指と人差し指で先っぽの突起部分を少し折ってそこからボルドー色の薄い皮をそっと引っ張って剥がしていく。動いているのは親指と人差し指だけで他の3本の指は居心地悪げにしている。
その右手は親指と人差し指しか動かせない。35年前に起こしたバイク事故の後遺症だ。上腕部には20センチもあろうか長く太い傷跡が縦に走っている。その事故以来右手の指3本は意志を持たずに細く折り曲げられたまんま。
それでも残りの2本の指で彼はとても器用に無花果の皮を剥いていく。細心の注意を払って丸い実を傷付けないように。皮の内側にみるみる顕れるミルク色の果肉を彼は目を細めて見る。
それは昔から変わらない温かい眼差し。料理する時も写真を撮る時も、対象を慈しむように、どんな取るに足らないような相手にも寡黙に辛抱強くその眼差しを向ける。
私のリクエストだった。2人で野菜市場を回って買い物をしていた時に彼が無花果を見て「去年はパスタをよく作ったな」と言ったのを聞いて、一通り食材を選んだ後にもう一度無花果の棚に取りに戻ったのだった。
20年以上の間家族の為に料理してきた。「家族の為に」と意識したことはなかった。自分が料理が好きで食べることが好きだったから。自分が美味しい料理を作り夫と娘の健康を守ることはとても自然なことだったから。それを苦痛に感じたことは長い間なかった。
それが突然嫌になった。娘はもう成長し美味しい食べ物の好きな人間に育った。
夫は一緒に食卓に座って食事をすることの意味を理解しない人だった。「お腹が減っていない」「後で食べる」そう言われて私は自分の作った料理を一人テーブルに座って食べることがしばしばだった。
それに夫は本当に私の料理を味わって食べたことなんて恐らくなかった。何しろ辛いものが大好きで、私の料理にいつでも色が変わるほど唐辛子や胡椒をかけるのが常だった。そのことに私はさして文句も言わなかった。文句を言って変わってくれるような人ではなかった。それにいつもどこかで自分に言い聞かせていたから。私は自分の為に料理をしているんだと。
昔、バイク事故を起こす前に男が私に語った夢は二人でジャズ喫茶を営むことだった。「君が接客して僕が飲み物を作るんだよ。そうすればずっと一緒にジャズのレコードを聴ける」
悪くない夢だった。けれどその夢は叶えられることはなかった。
彼はレコードもプレイヤーも全部手放したのだそうだ。私の知らない間に彼は悲しみや辛さばかりをたくさん背負っていた。夢も喜びも失い、あの優しさに満ちた写真を撮ることも止め、孤独のどん底で生きる意味すら手放そうとしていた。
不器用な彼は自らの傷を見せることを拒絶するかのように全身の表面を硬い筋肉で覆い尽くしていた。昔はもっと柔らかく温かく無邪気さと純粋さで胸を開いていた彼の身体は今では灼けて乾いた皮膚に引っ張られるように痛々しく縮こまってしまった。この人を痛めつけたのは私もかつてそうだった。けれどそれが辛くて離れたのよ。それなのにもっと深い傷を負って彼は私の腕に戻って来た。
その前屈みがちの背中を抱きしめて私は尋ねる。
「離れてた間に起きた悲しい事を全部埋めるくらいに幸せになれると思う?」
彼はいつものように少し間を置いてぽつりと言う。
「さあね、こぼれ落ちてしまったものも沢山あるからね」
彼は無心に無花果の果肉を刻み塩をまぶす。カペリーニを茹でる大きな鍋を火にかけてからパスタを冷やすための氷水をボウルに張る。
「何か手伝うことある?」
「君は音楽担当ね」
私は音楽をかける。ビリー・ホリディ、チェット・ベイカー、ジョン・コルトレーン、セロニアス・モンク。
白ワインをグラスに注ぎ、出来上がった無花果と生ハムの冷製パスタをキッチンに置いた小さなテーブルに並べる。木製のスツールに腰掛けて向かい合ってグラスを鳴らす。チーズやハーブを散らすことも憚られるような繊細な味。柔らかい無花果のピンク色の果肉の甘やかさ、生ハムの密やかな塩味。
「このパスタ、エロい」
いつもの唐突で突拍子もない私の言葉に彼が吹き出す。
「どゆこと?」
「なんかさ、どかーんと塩味とかニンニクやスパイスじゃなくて食じゃない部分を刺激するのよ、イキそうでイケないみたいな微妙なとこ。名付けて脳イキパスタ」
ワインが空になったらジンに氷を浮かべる。
流れてくるのは彼が私のお葬式に一番相応しいと決めたビリー・ホリディの歌。どんな明るい歌を軽やかに歌ってもどこかに流れる絶望が彼女の声の色だ。
誰にも真似できなかったくらいあなたを愛してあげる
雨が降ろうと晴れようと
山のように高く河のように深く
昔も次から次にレコードに針を落としては一緒に聴いた。お互いの言葉にできない想いが幾重にも絡まり合って奏でられるのに抱き合って耳を傾けたものだ。
あの頃に比べれば言葉を見つけるのも上手くなったのかも知れない。お互いに傷付ける事を注意深く避けるようになったのかも知れない。
でもその代わりに抱え込む荷物はもっと重くなってしまった。残酷に踏み躙られた傷、帰らぬ大切な人達、失った時間。灼けるような後悔。その荷物は決して軽くはならないだろう。どんなに丁寧に大切に抱き合っても。
ならば2人でもっともっとジャズを聴こう。
モンクの孤高、ビリーの絶望、コルトレーンの抱擁とチェットの迷いとワインとジンと無花果と生ハム、全てを味わい尽くして。
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