短編小説「才媛」(その3)


 二 東京<六本木> 一九八八年初夏
 時期的にはパリとベルギーの間になるだろうか、梅雨が明けて暑さが本格的になってきたころ、普段はロンドンに住んでいる彼女が、東京の支店に二ヶ月ほど出張してきた時期があった。
 昼休憩直前に職場の内線電話をとった部下が「係長、女性からです」と言った瞬間の直感は的中し、電話に出てみると彼女からだった。パリで初めて出会ったときの彼女の姿がくっきりと目に浮かんだ。
 社交辞令の挨拶を済ませた後、彼女は言った。
「今週一杯東京にいるの。良かったら食事でもどう?」
「もちろん」二つ返事で答えた。心が躍った。
「良かったら、Kさんも一緒にどうぞ」
 Kさんとは、わたしの同僚かつ友人で、彼女と直接一緒に仕事をしたことはないが、同じプロジェクトで会社と会社の関係上繋がりがあったため、呼ぶことにしたのだろう。わたしは、二人きりを期待していたので少々がっかりしたが、友人は労苦を共にしてきた戦友とも呼べる親しい仲なので気を遣う必要はない。友人に都合を聞いて、翌日の晩に六本木で食事をすることになった。
 彼女に会えると考えるだけで胸が高鳴った。深夜勤務が続いて疲れ切っていた頭と身体が向精神薬を大量に打ち込んだように熱く活気に満ちあふれるのがわかった。パリでの彼女の飛ぶ鳥のように軽やかでそれでいて鋼のように強い動きに思いをはせた。小さな手で書類を迅速にさばく仕草、小柄な身体で職場を縦横無尽に動き回る速さ、理屈っぽいフランス人に悩まされる同僚を押しのけて流暢なフランス語で舌鋒鋭く論破する豪胆さ。すべてをはっきりと覚えていた。感動と畏敬を越えていつのまにか確かな愛情へと変わっていた。
 わたしはこの女が好きなのだと。この才媛に惚れたのだと、はっきりそう自覚した。わたしは昔から頭の良い女性が好きだった。初恋の相手は成績トップのクラス委員長だったし、大学生の頃は帰国子女で英仏語の両方に堪能、かつ成績優秀で大学を首席で卒業するような女性だった。おまけに美女ときていて奥手のわたしには手を出す勇気すら出ない高嶺の花だったことをよく覚えている。
 パリで出会った彼女も同様だ。美女とは言えないが、子供のような愛らしさが魅力的だった。その上、頭が切れて仕事もできる。わたしが惚れる典型のような女性だった。パリ出張が終わり、彼女との別れ際、社交辞令のような挨拶しかできなかったことをずっと悔やんでいたのだ。ただ彼女は既婚者だった。ただでさえ奥手で恋愛経験が浅い上に、厭世家のくせに倫理観だけは強かったわたしにはどうして良いかわからなかった。既婚者であってもわたしの気持ちの欠片を伝える術はなかったか。そればかりずっと考えていたが未だに答えを見出せないでいた。
 とにかく明日、六本木で再会できる。会って話をすれば何かがつかめるかもしれない。
 翌日の夜、六本木の待ち合わせの場所に現れた彼女は上司を連れていた。大いに落胆した。彼女がわたしを食事に誘ったのは、仕事上の関係、彼女が所属しているコンサルタント会社を当社が利用している事への感謝を示すものであり、個人的な意味はないのだと悟った。当然といえば当然か。そもそも彼女が一人で若い男二人を連れて三人で食事というのは不自然だろう。上司を連れてくるのは自然なことだ。
 まあしかし、久しぶりに彼女に会うことができた。シンプルなホワイトシャツと紺色のスカートに褐色のジャケットという洋装で、相変わらずとても三十歳近い年齢とは思えない子供のような無邪気な雰囲気を纏っていた。ロンドン住まいならではの上質な皮のアタッシュケースを手にしていたが、まるで高校生の鞄のように雑な持ち歩き方が気取らない彼女らしかった。上司の男は、やたらと低姿勢の四十代の男性で上司と部下という肩書きとは裏腹の二人の力関係が透けて見えた。
 わたしたちは、六本木の高級レストランで食事をした。他愛の無い話で時間が過ぎた。
 彼女のラストネームは「Page」。ジミー・ペイジのPageだ。
「それよく言われるの」彼女は肉料理をつつきながら苦笑いした。隣の上司がわたしたちにやたらと気を遣って落ち着きがないのとは対照的に、彼女は終始リラックスしていて陽気だった。だが夫の話が出た途端、「イギリス人はめんどくさいのよ」そうぽつりと呟いた。そのときだけ彼女の顔が曇った。ジミー・ペイジの話など持ち出さなければ良かった。
 ロンドンのアパートで暮らす夫婦の姿が頭に浮かんだ。金融街に近い一等地。風格と気品を匂わせる、狭いながらも歳を重ねて重厚さを増した高級な家具付きアパートの丸テーブルで夕食をとる二人。BBCのニュースがテレビで流れる中、何気ない会話をロンドン訛りの英語で交わすが会話は途切れがちだ。二人の距離は近いようで遠い。わたしは色々と想像してみた。これ以上、夫のことに触れるのは止めた方が良いだろう。
 六本木での会食は、あっというまに終わった。やはり相手の上司や友人が一緒にいると話しづらい。自分の気持ちの欠片だけでも伝えようというわたしの決意は不発に終わった。
 店を出て六本木の駅前で別れたとき、彼女はわたしに手を振った。アルコールが回って赤く染まった頬が一層赤みを増し、六本木の華やかな夜の光が小柄な身体を染め上げて童話の挿絵のようだった。いつかまた会えるだろうか。これが最後だろうか。臆病なわたしの心は揺れたが、同僚の言葉がわたしの夢想を遮った。
「俺なら彼女を落とすぜ」友人は彼女のことを気に入ったようだった。女性に人気のある男だったし、奥手のわたしと違って恋愛慣れしている彼は、わたしの気持ちを見透かしたように言った。
「人妻だぞ」
「そんなこと関係ないね。一夜限りのつきあいっていうのもあるだろ」彼はきっぱりと言い放つ。こいつはいい奴なのだが、女好きなのだ。わたしは苦笑いした。
「もう一軒行くか」わたしは飲み直したい気分だった。
「いいね」
 わたしたちは再び六本木の繁華街に繰り出した。
 こうして東京での彼女との再会は何事も無く終わった。

俺なら彼女を落とすぜ

その言葉だけがいつまでも耳にこびりついて離れなかった。

(続)


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