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午前零時の乗客Ⅱ~#シロクマ文芸部「月の光」
月の色が黄色から赤に変わった。車掌はブレーキをかけた。
客席でうとうとしていた小太りの中年男が反動で前の座席に頭をぶつけた。
「いてて」
それを見て通路を隔てた隣席の少女が笑い転げて椅子から落ちそうになった。
「失礼よ」
母親と思われる若い女性が少女を抱き上げて膝に乗せ、頬をつねると少女は顔をしかめた。「だっておかしいんだもの」少女は肩まで伸びた金髪をかきあげながら大人びた口調で言った。
「おや、可愛い子ですね」中年男は隣席の母娘に笑顔で声をかけた。
「ありがとうございます。五歳になったばかりで。わがままで困っております」少女と同じ金色に輝く長い髪の母親が少女の頭を撫でながら答えた。窓から車内に差し込んだ赤い月の色で金髪が橙黄色に染まっていた。
「そうですか、まだ五歳ですか」男は寂しげに少女を見つめた。詮索はしないでおこう。五歳であっても色彩豊かなひとつの人生だ。あの若い母親もそうだろう。身体を覆う暖かい空気感で分かる。私の人生はどうだったろうか……。
「素敵な人生でしたよ」後ろから声がした。男が振り返ると、通路で黒猫が香箱を組んでいる。その様は、墨画のようだ。見覚えがあるような、ないような。黒猫は青い目でじっと男を見つめていたが、そのうち眠くなったのか後部座席へゆっくりと歩き出すと丸くなって目を閉じた。
「素敵な人生でしたよ」今度は前から声がした。車掌のほうに視線を移し、目を凝らすと、ぼんやりと少女の影が浮かび上がってきた。亜麻色の巻き毛の少女。やはり見覚えがあるような、ないような。浮かび上がって形を露わにしようとしたその瞬間に、月の色が赤から青に変わった。少女の姿がかき消えた。
「発車します」車掌のアナウンスが厳かに流れ、列車は再び動き出した。心地よく揺れる車内で隣の母娘はずっと窓の外を見ている。後部座席に黒猫の姿はなかった。男は再び居眠りを始めた。
「母さん、流れ星だ」バルコニーで夜空を見上げていた少年が叫んだ。
「きっとお父さんね」部屋から慌てて出てきた母親が少年を抱きしめた。
列車は、蝶が舞うように、青い月を横切ってゆっくりと漆黒の空間を進んで行った。
(了)
いつも企画ありがとうございます。よろしくお願いします。