短編小説「才媛」(完結)


四 ロンドン<シティ>一九九一年

 わたしは冬のロンドンにいた。金融街<シティ>の一角にあるオフィスに長期出張中だった。
 彼女のコンサルタント会社との契約は切れ、顔を合わすことも、言葉も交わすこともなく二年近く経とうとしていた。そんなとき、突然オフィスに彼女から電話があった。
 取り次いでもらった電話に出ると懐かしい声がした。
「久しぶりね。元気だった?」三十過ぎの相手に失礼かもしれないが以前より大人びて聞こえた。
「本当に久しぶりですね。そちらこそ元気みたいで何よりです。でもどうしてぼくがここにいるってわかったんですか?」
「わたしのアンテナは鋭いのよ。昇進したのも知ってるわ。すごいでしょ」
 本当に不思議だった。彼女の会社との関係は切れている。同じ金融関係とはいえ何の繋がりもない仕事でロンドンに出張しているのにどうして分かったのだろう。ましてやわたしが昇進していることまで知っているとは恐れ入った。
 聞けば彼女も昇進していて、ロンドンの支店長になっていた。以前会ったときの彼女の肩書きはマネージャーだったが、性別不問、能力主義の外資系会社とはいえ、この若さで支店長とはやはり凄腕である。
「良かったら食事でもどう?昇進のお祝いに」
 かつて六本木で食事をしたときと同じ台詞だ。
「ありがとう。もちろんいいですよ。でも気を遣わないでくださいね」
「いえいえ、あなたにはお世話になってるから」
 その日の夜にスカイガーデン近くのステーキハウスで食事をすることになった。仕事を早めに終えてコートを羽織り、急足で待ち合わせの店に向かった。店に入ると、彼女が手を振っているのが目に入った。東京のときとは違って一人だった。ピンクのタートルネックセーター姿で黒い髪を長く伸ばしていた。
 わたしたちは二年ぶりの再会の握手を交わすと、向かい合わせに座った。
 改めて見る彼女は、声の印象と同じく、少し大人びて見えた。以前は子供のようにふっくらしていた頬は白く端正になり、口紅の緋色が映えていた。幼さや脆さはもはや感じられず、一人の毅然とした女性がそこにいた。
 二人は食事をしながらなごやかに語り合った。ただあの夜のことはどちらも触れることはなかった。何事もなかったようにお互いの仕事の話や一緒に仕事をしたときの話をした。
「ねえ、うちに来ない?」笑顔で突然彼女が言った。
「はあ?」驚いてフォークとナイフを持つ手が止まった。
「好待遇で歓迎するわよ、あなたなら」彼女は顔色一つ変えない。
 少し想像してみた。確かにお互い似たような職種だ。今のわたしの会社の待遇は決して悪くないが、有名な外資系企業のそれとは比較にならないだろう。ただ能力主義だから成績が悪ければ簡単に切り捨てられる。到底わたしなど生き残れるとは思えない。
「いやいや、それは無理無理」わたしは困惑して言った。
「冗談よ」彼女は微笑むとワインを飲み干した。「もう一緒に仕事をする機会がないのかなって、ちょっと残念に思っただけ。ロンドンは嫌い?」
「いや好きですよ」
 本音だった。この街は好きだ。ニューヨークのように忙し過ぎることも、パリのように華やか過ぎることもない。落ち着きがあり、少なくともわたしの知っている英国人はみな紳士的かつ親切だ。芸術性にあふれ、風格が漂う街並みも好きだし、何より大好きなロックが育まれた文化がある。外国に住むならロンドンだなと学生の頃から思っていたくらいだ。
「住みやすい街だけどね。わたしは微妙かな。最近は日本に帰りたいって思ったりする」
 そう言って空のグラスを見つめる目が少し寂しげに見えたが、すぐに凛とした表情に戻った。
 二時間ほど談笑した後、会計を済ませてわたしたちは店を後にした。小雨がぽつりぽつりと落ち始めていた。ロンドンの雨に傘は要らない。コートがあれば十分だ。
 白いコートを纏った彼女は店の階段を降りたところでバッグから青いリボンで結んだ小さな箱を取り出して、わたしに差し出した。
「これお祝い」
「え!そんなのもらえないですよ」わたしは戸惑って一歩下がった。
「いいからもらいなさい!」彼女はそう言うと無理矢理箱をわたしに押しつけて、足早にタクシー乗り場の方へ向かった。
「あ、ありがとう!」わたしは逃げるように離れていく彼女を追いかけようとしたが間に合わず、その場に立ち尽くしたまま大声で言った。
「帰ってから開けてね!さようなら!」そう叫ぶと、彼女はタクシーに乗り込んで手を振った。タクシーがロンドンの冬の夜を走り去っていった。
 さようなら、か…
 小さな箱を片手にわたしは地下鉄の駅に向かって歩き出した。霧雨と冷えた空気が、あの日二人で見たブリュッセルの果てしない夜景を思い起こさせた。寂しさと懐かしさ、そして少しの後悔が胸の中を満たしていった。
 それが一人の愛しい才媛と会った最後の日になった。

 半年後、彼女は英国人と離婚して日本人と結婚したと聞いた。相手は六本木で一緒に食事をしたあの上司と知ったときは少し驚いた。友人Kが、だから言っただろ、とからかった。
 ボタンを掛け違ったかな。わたしは苦笑した。
 物思いにふけっていると「課長、素敵な腕時計ですね」と新入社員の女性が声をかけてきた。
「そう?ありがとう。もらい物なんだ」
「ふふふ、彼女ですかあ」いつの時代も女性は色恋に敏感だ。
「違うよ」
 わたしは腕時計に目をやった。黒皮の<ポールスミス>の文字盤は午後一時を指していた。
「昼飯にいくか」わたしは友人Kを誘って席を立った。

(終)

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