短編小説「才媛」(その4)
三 ブリュッセル<シェラトンホテル>一九八九年
ホテルの自分の部屋に戻り、シャワーを浴びてパジャマに着替えたところで電話がなった。受話器をとると彼女だった。「今から行っていい?」心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。同時にかすかなためらいが生じた。同じホテルに宿泊している若い女性がこの時間に男性の部屋に来るということの意味がわからないほどわたしは子供ではない。
「いいよ」そう答えるのに何時間かかっただろう。したたか酔って上手く回らない思考がさらに道に迷って迷路に入り込み、やっと絞り出した答えだった。実際には五秒ほどかもしれない。
電話を切ると、わたしは大急ぎでパジャマ姿からいつものルームウェア、白のポロシャツと灰色のカジュアルパンツに着替えた。ルームサービスで毎日のようにクリーニングしているから汚れや臭いを気にする必要はない。洗面所で顔をもう一度洗うと、ホテル備え付けのオーデコロンが目に入ったが、普段香水などつけないわたしが今更つけるのもわざとらしい。酔いを覚まそうと何度も顔を洗ったが相変わらず視界が揺れている。酒は強い方なのだがいささか飲み過ぎたようだ。
そうこうしているうちに、控えめなノックの音が聞こえた。
わたしは胸の鼓動に耐えつつ、静かにドアを開けた。滑り込むように彼女が部屋に入ってきた。「ごめんね、こんな時間に」彼女は紺色のブラウスと乳白色のジョガーパンツという軽装に着替えていた。側を通り過ぎるときに甘い香りがした。
彼女を窓際のソファの真ん中に案内した後、冷蔵庫を開けて聞いた。
「何か飲む?」
「水をお願い」
冷蔵庫から<エビアン>のペットボトルを二つ持ってソファに戻ると、透明なテーブルに置いた。彼女は窓の真向かいに座っていた。ここはシェラトンホテルの一〇階。天井から床まで一面ガラス張りの向こうにブリュッセルの街が一望できる。わたしは、コーナーソファの彼女の斜め右に腰を下ろした。
「ありがとう」彼女はペットボトルを開けて一口飲んだ。酔いが醒めたのか、少し頬を赤く染めてはいるもののいつもの花のような童顔に戻っている。
「どうしたの?こんな遅くに」わたしらしい野暮な台詞が口をついで出る。
彼女は驚いたようにわたしに視線を移した。黒い瞳が少し潤んでいる。
ああ、なんて無様な自分の一言だろう。午前三時に一人きりの男の部屋に来る理由を女性に聞くなんて。わたしは自分の不器用さ、いや臆病さに失望した。
彼女が腰を上げようとしたので、わたしは制し、彼女の右隣に座り直した。大きな窓の向こうにはブリュッセルの街。そして漆黒の夜がある。この地には新宿のようなビル群はないから、一〇階から見る夜は、果てしなく続く荒野のように暗く、控えめな月明かりと砂糖をまぶしたような光の粒子が点々とあるだけだ。磨き上げられたガラス窓を通して外気の冷たい空気感まで伝わってくる。
左太ももに暖かい感触を感じた。彼女の掌だった。わたしがゆっくりと肩に手を回すと彼女は身を寄せわたしの肩に頭を乗せた。左手から彼女の温もりと小鳥のような鼓動が伝わってくる。明るく華やかで機知に富んだ人生。同時に鍛錬と挫折と競争に疲れた人生。幼い頃の少女の姿が垣間見えた。
「この街はいいところね」
「ああ」
それきり二人は無言だった。微かに聞こえる吐息、寄せてきた身体の柔らかなしなり、甘く上品な香り、太ももから伝わる艶やかな刺激。わたしは性的誘惑に駆られた。
友人の言葉が脳裏をよぎった。ベッドに移ろうか。わたしは逡巡した。
だがその必要はなかった。彼女はわたしの肩に頭を乗せたままいつのまにか寝息をたてていた。疲れて寝てしまったのか、それともなかなか手を出さないわたしにあきれて狸寝入りをしているのか。
なぜだろう。彼女の寝顔を見ているうちにベッドに連れて行こうという野心がどこかへ消えてしまった。このまま肩を寄せ合って抱き合ったままで十分だった。わたしの腕の中にいてくれれば良い。それだけで幸せだった。
<情けない、男だろ>
友人に言われそうだな。仕方ないだろ。おれはこれで満足なんだ。
ブリュッセルの夜は永遠に続く気がした。片手から伝わる優しい温もりに包まれながら砂漠のように果てのない夜を眺めているうちにいつしかわたしも眠りに落ちていった…
朝陽で目が覚めた。ソファに横たわっているのはわたしだけだった。時計は午前七時過ぎを指している。つい眠ってしまった。まるで先のことが夢だったように彼女の姿はどこにもない。テーブルに<エビアン>のペットボトルが二つある。彼女が残していったのはそれだけだった。
午前八時に出社すると、何事もなかったように彼女は笑いながら挨拶した。
「おはよう、今日もがんばろうね」
以降、帰国するまでの数日間、部屋の電話が鳴ることはなかった。
(続く)