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ケズレヴ・ケース〜コーデリア01光宙記録 Report 3〜

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Report 2から続く

状況-開始-

 緊急制動へ向けてのカウントダウンは三十分前から始まった。
 こうなると多忙を極めるのはエミリア指揮下の航務員たちであって、群司令部スタッフの出る幕は殆どない。
 三十分の時間も惜しいとばかりに、ハメットはイリアに許可を求め、より精度の高い予測モデルを構築せんとするスジュンの助手を買って出て、CICへ降りて行った。
 残された群司令と群副司令は、制動開始までは、状況の急変でもない限りは、ひたすらに待機となる。
 「……少しでも休まれては如何ですか?」
 アサクラが、年長者を気遣うかのように、声を掛けてくる。
 実際、イリアの方が明らかに年長者ではあるのだ。
 「……。私は先ほど起きたばかりだ。むしろ貴官こそ少しでも休みたまえ」
「いやぁ、デスクワークが長かったものですから。少々の徹夜には慣れております」
 そうか、あれを少々で済ませるのか?
 イリアは、立場上、前職にあった時のアサクラの仕事ぶりの記録には公式、非公式ともに目を通している。
 正直、感嘆した、と云うよりは、絶句した。
 心身ともに健康な状態での薬物その他不使用による連続不眠耐久実験か何かの被験者なのかとさえ疑ったほどだ。
 日頃の彼を眺めていると、そんなそぶりはまるで見せないし、気取らせないのだが、アサクラは公団随一のワーカホリックとして悪名高い人物だった。
 そして、同時に溜めに溜めた有給休暇を一気に使いまくって、家族サービスに邁進する良き家庭人でもあった。
 要するに振り幅が両極端なのだ。
 と、イリアは思っていたのだが、実像は少しばかり違っていた。
 彼はいわゆるオンとオフのスイッチを巧みに使い分けながら、仕事中であっても分単位の隙間時間が生じれば、そこでオフに切り替え、休んでいる時でも、特に疲れていなければ、頭の中をオンの状態にして、文字通り、頭脳労働に励むのだった。
 そうやって頭の中で書類を整理し、文書の内容を精査、推敲までして、何食わぬ顔で、さも、今、考えたかのようにアウトプットしてしまうのだ。
 いや、どの途、ワーカホリックには違いない。
 家族の前では、
「お父さんはお前たちと目一杯愉しみたいから、目一杯お仕事もしなければならないのだ」
 と嘯き、職場では、
「小官は存分に任務に精励したいがために、存分に休暇も率先して消化したいのです」
 などと嘯く手合いだ。
 それに……。
 と云い掛けて、イリアは口をつぐんだ。
 それに、気遣いは無用だ。
 自分は間もなく気絶する予定なのだから。
 とはさすがにアサクラ相手でも云える筈がない。
 恥とは思わないが、わざわざ事前申告する類のものでもないだろう。
 だいいち……。
 と彼女なりに心の内で自分へ抗弁した。
 だいいち、光宙艦の緊急制動中に、平気な顔をして起きているやつなど私は見たことがない!
 それはある意味、事実であった。
 彼女自身は、その間、ずっと気を失っているのだから。
 「それではいよいよアリス嬢ちゃんに弟妹を授けるおつもりなのですね?」
 光世紀世界をあまねく探すまでもなく、実は彼女と目と鼻の先にいるエミリアこそが、過去の経緯と”アリシア出生の秘密”双方を知っている数少ない生き証人であった。
 そして、うっかり訓練大学校同期の彼女の前でこんな愚痴を漏らしでもしたら、きっとわざとらしく、からかってくるに決まっているのだ。
 とっくに成人しているアリシアの弟か妹を今さら産んでどうするのだ?
 進発、帰還の都度、公団光宙艦繋留廠へいつも見送りに来ていたアリシアは成人してからも太陽系内に留まっており、両親とは似て非なる道を歩んでいた。
 一度、アリシアのハイスクールでの成績を知った公団の人事部から、イリアに”内々に推薦状”を書いては貰えないかと、非公式な打診が来たことがある。
 父親たるイスマト宛ではないのは、この時点で彼女の方がすでに公団での序列が上位だったからである。
 無論、そのことが家庭争議の火種にならなかったのは、イスマトはイスマトで、公団内で二番目にタフでジェントルでハンサムな上に、何よりも公正無私な人格者としての地位を確立していたからで、決して家庭内序列が二番目だったからではない。
 なんにせよ、イリアはそれを一笑に付して断った。
 「アリスは、すでに小官の娘と云う不自由なリスクを産まれながらに背負っているのです。これ以上のリスクを娘へ強要するなど、親として看過出来ません」
 そして、アリシア自身には、
 「人は自由に生きるためにこの世にあるのだ。その自由を自ら捨て去るような不自由でつまらない人間にだけはなるなよ?」
 と、親としては、如何にももっともらしく聴こえる詭弁を捏ねくり回した教訓を垂れてみせた。
 やがて、彼女は光宙艦勤務から戻る度に、アリシアの現在の職場の名を訊いては、その度に首をひねることになる。
 「以前、訊いたところと違うではないか? アリス……。自由に生きろと云ったが、いくらなんでも転職するにも程があるぞ?」
「……母さま。またお忘れになったのですか? 私は、初めからずっと同じ職場にいましてよ? 私が転職しているのではなく、職場の方が改組、再編をするたびに、名前をコロコロと変えているだけなのだと、もう何度も説明したではありませんか? あぁ、いよいよその見た目の若さに疲れて、ついに耄碌なさったのですね……」
「呆れているだけだ。いったい何なのだ? お前の職場のその節操のなさは?」
「臨機応変。柔軟即応。それがウチのモットーなのです。母さまや父さまのトコだって、謹厳実直、曲突徙薪にすぎるきらいがあるではないですか? 少しはウチの自由闊達さを見習ってもよろしいのでは?」
「……それはつまり……。一本、筋が通ってないと云うのだ……。まぁ、公の場でなら、カウンターパートとして認めても良さそうだが、母親の立場からすれば、まだまだ詰めが甘いと云いたいところだ」
「当たり前です。今となっては私の方が姉に見えたところで、それでも私は、いつまでも母さまの血を引く娘でしてよ? その娘が母親をやり込めてしまっては、母さまのお立場がないではありませんか?」
 そう云ってアリシアは母親譲りの屈託のない笑顔から真顔となり、イリアの愛娘と云う立場から、この場での本来の立場へと戻った。
 そして、目を細めて自分を見つめる妹のような母親へ敬礼すると、ここが低重力下とは思えないような見事な挙動で踵を返し、部下たちが待つ来賓席へと向かう。
 今回の進発式での現職は、確か、太陽系治安維持軍第四管区技術試験団団司令だったか……?
 これから始まる苦行の前の現実逃避に向けて、記憶の森へと分け入りながら、宇宙開発事業公団グリーゼ五八一方面第五次派遣光宙艦群司令イリア・ハッセルブラッド宙将補は、いまのところは一粒種の太陽系平和維持機構軍第四管区航宙技術試験団団司令アリシア・グレイ少将に、こちらの不注意と不手際に起因する行為では、決して弟妹は授けまいと密かに誓った。
 だいいち、配偶者たるイスマトは家族たちと、遥か後方の太陽系にあるのだ。
 人類が宇宙へと乗り出した中世期に比べれば、はるかに社会的通念と宗教観や倫理観が緩くなってきた昨今ではあるが、そもそもイリアは彼以外との間で子を成したり、またはそれに準ずる行為に耽るつもりも予定もないのである。
 そして、これは蛇足ではあるが、結局、イリアは終生、娘アリシアの職場の名前を一言一句違えずに憶えることはなかった。
 「それが母さま、いえ母らしいところでしたから……」
 アリシアは、そんな母親の思い出を語る時、誰に対しても、心底、嬉しそうに、そして愉しげに笑って聞かせたと云う。
 秒読みは刻々、ではなく淡々と進行する。
 これが長きに渡る光程の前半期であれば、姿勢制御のためのバーニアを吹かし、百八十度回頭の上、主機の推進軸を加減速方向へ合わせなければならない。
 だが、既に一度、いわゆる折り返し減速中間点を過ぎてから、緩やかな減速を行っていたコーデリア〇一の主機は、万が一の緊急制動位置のまま、固定されていた。
 それでもなお、準備行動が必要だったのは、一旦、火を落としてしまっていた主機を再起動させるためと、運用上、艦体からその一部を露出していた艦橋並びに乗員居住区、いわゆる有人指令モジュールを、中央船殻(セントラル・コア・シェル)へと収容する必要があったからだ。
 光宙艦は、光速に近づけば近づくほど、それ自体が質量の化け物と化す。
 アインシュタインが用意周到に仕掛けた罠を全て回避し、その呪いの迷宮の奥に眠る謎を解く鍵を手に入れなければ、光宙艦はたちまち宇宙の藻屑となるのだ。
 省いて良い手間はないのだ。
 アインシュタインが密かに残したとされるショートカットコマンドを求めて、多くの物理学者たち、その手足となって迷宮の宇宙を疾駆した航宙士たちは、みな、彼との一騎打ちに敗れ、累々たる屍を築き上げていった。
 だが、その堆く積み上がった屍の山、今や銀河連峰と呼んでも差し支えないほどの高みの向こう側にこそ、目指すものがあることは、誰もが知っている。
 つくづく、このたったひとりの天才的なペテン師を、いまだに誰ひとり出し抜けずにいる情けない現実こそが、実用恒星間飛行の歴史なのである。
 何よりも困ったことに、答えを導き出すのに使える手段はたったひとつの冴えたやりかたしかない。
 それはまさに天上界から下界へと降ろされたか細いたった一本の蜘蛛の糸なのである。
 そして今だにその神通力の衰えを知らない無神論者の悪戯好きな神は、下界でそのか細い糸にしがみつこうと悪戦苦闘している我々を眺めながら、舌を出しているに違いないのだ。
 光宙艦の船殻は耐衝撃、対閃光防御のみならず、およそ考え得る数々の物理的障害に対しても有効な強固な防護機能を備えている。
 それでもなお、最強の盾を貫く最強の矛が存在するのだから、文字通り、宇宙は矛盾(パラドックス)に満ちている。
 そんな矛盾だらけの宇宙を渡るためには、これらがその実、論理的にはなにひとつ全く破綻していない、つまり、なにひとつ矛盾などないことを証明してみせなければならないのである。
 アインシュタインは、いったいどれほどのひねくれ者だったのか?
 十重二十重に固く結ばれた矛盾と云う紐を解きほぐせば解きほぐすほどに、新たな矛盾が目の前に出現するとは。
 それを目の当たりにした人々は、もはや醒めない夢でも見ているような忸怩たる思いの中で、それでも前に進まんともがき続ける。
 だが、どれほど、悪態を吐こうが、どれほど、怒りに身を任せて、強引に押し通ろうとしたところで、今やアイシュタインの使徒となりさがったかつての勇敢なる物理学者たちと云う屍鬼どもから一斉に舌を出されて嗤われるのがオチだった。
 だいいち、このゲームのルールも勝利条件ですら、アインシュタインその人しか知らないのである。
 こんな胴元のひとり勝ちが前提の割りが合わないゲームに、人類は、よくも全財産を賭け金として注ぎ込んだものだ。
 などと全くを以って非論理的な思考回廊を行きつ戻りつしながら、イリア群司令は、アインシュタインとその眷族をブツブツと呪いつつ、込み上げてくる吐き気と無限に続くかと思われる制動時に船殻越しに襲ってきた”非人道的なGと云う凶悪極まりない物理法則と云う最凶の武器を手にした悪魔”と格闘する憂き目と相成ったのである。
 そして、緊急制動の最終段階を待たずして、イリアは特に誰も期待はしていなかったが、自身の予想通りに気を失い、次に目覚めた時に見たものは、医務室のベッドの傍らで、とびきり最凶のにやついた笑いを浮かべてこちらをみている光宙艦群旗艦艦長の姿だった。
 カートライト一等宙佐は、群司令の容体を案じて、艦長権限で医務室へ駆けつけた……ことになっているようだ。
 イリアはそこでようやく思い出した。
 あぁ、そう云えば彼女は、自分にとっての唯一の悪友だったと。
 エミリアの唯一の悪友であるペポニとの会見を急ぐべきだった。
 無論、議題は、エミリアを出し抜くための共闘とその算段ではなく、彼の艦がグリーゼ五八一をロストした経緯と、そこから始まった諸問題の検討だった。
 まだ吐き気と眩暈は残るが、医務室の壁に据えられた時計くらいは見て取れる。
 ペポニは通常空間での実測を始めているだろうし、本艦は、艦長がささやかな愉しみに興ずる程度の時間的余裕を以って、トリトン二二との邂逅軌道に乗ったことは確かなようである。
 何かと悪趣味なことを好むエミリアではあるが、残念なことに、艦長としては公団でも指折りの逸材なのである。
 公私の別を何よりも尊ぶイリアが、エミリアに物理的にせよ精神的にせよ友情の証としての私的制裁を加えないのは、全くを以って、ひとえにこの憎らしいまでの彼女の艦長としての才を惜しむからなのだ。

 慇懃無礼と書いてエミリア・カートライトと読む。
 傍若無人と書いてエミリア・カートライトと読む。
 エミリア・カートライトは天衣無縫と云う古事成語を天意無法と書き換えた歴史上最初の人物である。
 世界の言語表現全ての悪口雑言はエミリア・カートライトを顕現するためにつくられた。
 それでも尚、衆目一致するところで、エミリア・カートライト一等宙佐は、人としては諸々、間違っているのに、艦長の職務においては何ひとつ間違えたことがない稀有な存在だった。
 良い意味でも、そして悪い意味でも……。
 どうしてこの宇宙は、大は全てを縛る物理法則から小はエミリア・カートライトの人格に至るまで、矛盾と不合理と理不尽で構成されているのか?
 かつて、こうした人類を悩ませる最大の命題に実に明解な答えの一例を提示してみせた旧時代近世文学黎明期に活躍した当時は著名だった作家がいた。
 そう云うものだ……。(So it goes.)
 現時点ではアインシュタインはこの答えに賛同こそすれ、納得はしていない模様である。
 それは確かにそうなのだ。
 哲学者なら”そう云うものだ”で片付けられる命題を片づけられない面倒臭い人間の成れの果てが科学者なのだから。
 そう云うものだ……。
 なるほど、実際、そうかも知れない。
 だが……何故?
 科学者とは、最後の最後まで”何故?”と考え続け、答えを探し続ける疑り深い生き物なのだ。
 だが、どう云うかたちにしろ、科学者とは違う意味で厄介な生き物たるエミリアを料理するのは、他の全ての厄介ごとを片付けてから、ゆっくりと行えば良い。
 何なら退役後の愉しみとしても差し支えはないだろう。
 おそらくその頃にはエミリア・カートライト被害者の会は、一大勢力として光世紀世界の一角に自治区を形成するほどになっているかもしれない。
 新たな将来の愉しみを糧に、嘲笑と云う悪友の特権を行使するエミリアの視線から逃れるために、今は医務室のベッドの上で頭から毛布を被り、せめて早く重力酔い止めの薬が効いてはくれないものかと祈るイリアであった。
 前方哨戒群の中核艦であるネプチューン級哨戒光宙艦トリトン二二艦長のンガジ・ペポニ二等宙佐は、地球圏でもその名を知られた誇り高き戦士の末裔である。
 と本人も思いたかったが、それは遥かに遠すぎる昔の先祖の先祖あたりまで遡る話で、彼の祖たる人々が共通言語としていた言葉で”楽園”を意味する些か、あまりと云えばあまりな姓を一族郎党がこぞって名乗り始めた頃には、そのような戦士の誇りは、彼らが住まう地域ではすでに質草にもならないカビが生えた代物だった。
 そこで、たまたま一族の中で商才と云う稀有な才能の持ち主だった七代前の先祖が、その誇り高き部族に伝わっていた諸々を古い皮袋から取り出して、”民族芸能”と云う新たな皮袋に詰め替えて、売り先を軌道修正して、さも目新しそうな観光パッケージとして売り出すことから始め、ついには莫大な財を成して今に至る、つまりは誇り高き商人の末裔なのであった。
 故にペポニ家、もしくはペポニ一族は地球圏アフリカ経済圏では一大コングロマリットの当主として、政財界その他諸々、上は政体首長のスポンサーとして、下は田舎の小学生が持っている文房具のメーカーとして、何らかの影響力を持った存在として確かに著名な一族ではあった。
 こうした名家、一族では何代かごとに必ず思春期の反抗期をそのまま引きずって成人する者が現れることは、統計的には証明されてはいないが、それでも確実にひとり、ふたりくらいは現れるものである。
 若きンガジ・ペポニ光宙准尉はその典型であり、おそらくはその始祖まで遡っても一族が輩出したただひとりの光宙艦航法士官であった。
 彼らが住む大陸から海を隔てた遥か東の大陸には、精神力によって宇宙を飛翔出来ると信じる部族がいたが、ンガジの知る限り、彼らの部族の祖先は、そのような精神性も信仰も、世界観も想像力も持ち合わせてはいなかった。
 だから、ンガジは一族の力は経済的にも精神的にもましてや祖先の血筋も使わずに、自身の努力でのみ現在の立場に昇って来たのである。
 もっとも、世界的にも名門で知られる北米の工科大学の大学院卒業までの学費は親の出資に依存していたが……。
 彼のただひとりの良き友であり、大学での同期でもある群旗艦艦長に云わせれば、良くも悪くもお坊ちゃんなのである。
 ただ、良くも悪くもならば、良い点を伸ばせば、悪い点はいずれ注目に値しない取るに足らないものになる。
 ンガジは自身の長所を伸ばすための労力を厭わなかった。
 実際、大学院では博士課程まで進み、博士論文をものにしていて空間電子工学博士として、今も時折、学会誌へ論文を投稿している。
 その点では自身の短所を伸ばすことに愉悦すら覚えていた良き友とは真逆だった。
 つまり、後に歩く公団とまで云われた公団の未来構想を具現化したような人物へと成長したのであった。
 そんな人物にとって公団はまさに”楽園”だったことだろう。
 驚くべきことだが、彼の良き友もまた地球外天体都市工学についての博士号を得ているのだった。
 しかも、その博士論文は今も多くの研究者に引用されるレベルのもので、どこで聞きつけて来るのか、稀に講演依頼すら公団を通じて舞い込むらしい。
 無論、私事では何よりも煩わしさと面倒を嫌うエミリアが引き受けた試しはない。
 これは何の裏も表もない掛け値なしの事実である。
 ただ、彼女の学問への興味と熱意はそこがゴールだったらしく、何度目かの任地の官舎に、博士号の証書ごと置き忘れて来たようだ。
 「才能の無駄遣いも良いところだ」
 イリアの端的な指摘にもエミリアは躊躇なく反論したものだ。
 「それはただの見解の相違ですね。小官の天職は光宙艦乗りと心得ております。故にその職分を全うするために不必要な些事を切り捨てて身軽になっただけの話です」
「曲がりなりにも都市工学について学んだ者ならば、それは公団が行う拠点整備の基盤構築にも貢献出来ると理解できるだろうに」
「それも見解の相違です。小官は叶うならば、いち光宙艦士官としての任を全うすることで公団に寄与したいと考えております。ですから、それ以外の所詮は小役人風情と変わらない幕僚部への転科にも何の興味もありません。いやいや、無論、小官には敬愛する群司令を揶揄する意図はありません。小役人も極めれば立派な小役人です。ですが、光宙艦の加減即時に生じる高Gによる物理的な重圧ならばともかく、あのいつ果てるともなく続くチマチマしたお役所仕事に伴う精神的な重圧には、とてもとても小官ごときの器量と神経では堪えられるとも思えません。小官の志向するそれは総監への道ではなく、操艦による道なのです。幕僚として寄り道ついでにお茶を啜りながら、司令部に流れる怠惰な時間を甘んじて過ごすなど、それこそ小官の余人を以って変えがたい才能の無駄遣いも良いところです。実に勿体無い」
 彼女は謙虚な口ぶりを装ったまま、堂々と長口上で豪語してみせ、さすがに喉が乾いたのか、メインランドの欧州貴族直系の令嬢だと云う副長からお裾分けで貰ったアールグレイの希少な高級茶葉で淹れたお茶を啜って、ついでにイリアの手元にあったショコラ・トリュフを、遠慮なくひとつ摘んで口に運んだ。
 高貴な紅茶の香りとトリュフの上品な甘さに、ひと心地ついたからなのか、悪態をついてすっきりしたからなのか、満面の笑みを浮かべて、エミリアは、空になっていたイリアのティーカップにもポットから紅茶を無言で継ぎ足した。
 共に非直の時は、こうして遠心重力区画の一角に設けられた士官専用サロンで、無為な午后を過ごすことも多い。
 ブリッジにほど近い士官食堂は微小重力区画にあり、正直、イリアはそちらの方が居心地が良いのだが、こうしてカップでお茶を飲める愉しみは、無論、こちらでしか味わえないのだった。
 終生、重力の井戸の底を嫌ったイリアではあったが、訓練校時代に、今もこうして眼の前にいる彼女から初めてお茶に誘われて以来、微小重力下出身者からすれば、奇妙で贅沢としか思えないこの風習を、だが悪くはないとは思っていた。
 琥珀色の温かい液体が、纏っていた白い湯気の衣を脱ぎ捨てながら、重力に惹かれるままに白磁のティーカップへと曲線を描いてこぼれ落ちていく様は、何処か官能的な甘い感情をくすぐる。
 全くを以って、そこには何の実用性も見出せない。
 だが、そんな非生産的な時間こそが、次の仕事への英気を養うのだと云うことを、イリアは、全くを以って不本意ながら、他ならぬエミリアから教わったのである。
 もっとも教えた当人はそんな非生産的な時間を浪費せずとも、常に英気と悪意と邪気を、誰にも頼まれてもいないのに、常に、過剰なほどに養い続けているのだが、エミリアがそれへの反駁など意に介さない人間であることは云うまでもなかった。
 そして、この手の施設が今も存在する理由を、世間は誤解しがちだが、非直の士官が集うサロンや遊戯施設は、何も士官たちの特権享受と云う名前の福利厚生のためにあるのではない。
 ただでさえ長期に及ぶ恒星間航宙の期間、ほぼほぼ目的の星系までは光宙艦と云う名の閉鎖された同一空間で、いつも同じ顔ぶれの人間と何事もなければ特に代わり映えのしないルーチンワークの日々を送るのである。
 それを能率的に維持するために必要なのは鞭ではなく飴なのである。
 無論、飴だけでは精神的にも病的な肥満になりがちではあるので、多少の鞭も必要だが、その匙加減はいつも全ての指揮官(エミリアを除く)を悩ませる問題でもあった。
 そして、こうしたサロンが士官への飴なのではなく、上官には非直の時くらいは自分たちの目が届かないどこかに閉じ籠っていて貰いたい、隔離、監禁しておきたいと切に願う部下たちの側の飴として、つまりは主に部下の側の精神的休養のためこそにあるのだった。
 一般通廊でひと目なりともその可憐な姿を拝めれば、しばらくは幸せになれるとされるイリアであるならいざ知らず、誰しもが、何の自衛手段も持たないままで、エミリアとの突発的接近遭遇戦には及びたくはないのだ。
 こうして旧態依然の程を装いながら士官食堂、士官専用サロンは、公団所属の中型以上の光宙艦設備として、今も存続している。
 職制、職分での比率から勘案しても多数の一般航務員よりも少数の士官たちを自発的な一時監禁へと持ち込んだ方が、よほど効率的だし、何より理に適っていると考えた時点で、それは如何にも公団的な発想の転換とも云えた。
 それは、これを特権だと勘違いしている士官がいるのならば、それは実害がない範囲において、勘違いしたままでいて貰っても良いほどに。
 もっとも、士官候補生として訓練大学校へと進む課程で、若い光宙准尉はみな思い知らされるのである。
 士官には享受する権利などなく、遂行する義務しかない。
 そこが一般航宙士と航宙士官との間に横たわる最初の心理的関門でもあった。
 そして、そんな理不尽な職制、職分だと気が付きながらも、彼、彼女たち光宙准尉はほぼ漏れなく航宙士官としての軌道への投入を図るべく躊躇うことなく自身が保てる推力の全てを費やすのだった。
 飛び級で一般工科大学の大学院を修了したのち、公団の一般学生枠の訓練生として軌道遷移した若きエミリア・カートライト光宙准尉が、当時の訓練生寮のトイレに、落書きと云うかたちで、自分を棚にあげたままの名言を残している。
 「みんな頭がおかしい変態どもだ……」
 イリアは決して口にはしないが、非直で暇を持て余している時のエミリアの相手も、自分の群司令としての義務のひとつだと思っている節がある。
 そして、イリアは時々、こうして共にお茶の時間を過ごす時、ここまで自分に自信を持っている堂々とした、もはや奇縁、悪縁としか呼びようがない彼女のことを羨ましくさえ思うのだった。
 図々しいにも程がある図太さこそが、この理不尽極まりない宇宙で生き抜くには必要なこともあるからだ。
 エミリアならいち光宙艦艦長として宇宙終焉の刻まで何なく平然と生き延びそうな気さえしてくるのは、何もイリア個人の感慨ではあるまい。
 その点ではエミリア・カートライトも、そしてイリア・ハッセルブラッドもある側面から見れば、公団の理想を具現化した人物とされるが、彼女らは終生、公団の枠から外れることはなく、ともに退役宙将としてその人生を全うしている。
 だが、ンガジ・ペポニは一等宙佐まで昇進を果たしたのち、突如、それまで背を向け続けていた一族の血に目覚め、公団出身の退役将校として政界に身を投じることとなり、合わせてファースト・レディ、エミリア・ペポニの華麗な物語も始まるのだが、それはまた別のお話である。
 そして、今、何よりも重要なのは、そんなンガジ・ペポニ二等宙佐がその乗艦を群旗艦との邂逅軌道に乗せるまでの間に、その勤勉さを以ってかき集めた各種実測データがもらたすものであった。
 彼はそのために自らの判断で通常空間へ降りたのだし、それを了解していたからこうして群旗艦もここまで先行して来たのである。
 近接軌道に乗って直接交信可能域まで達した時点で、早くも哨戒光宙艦トリトン二二は速やかな情報連結を求めて来た。
 まだ通信時のタイムラグは生じていたが、群旗艦側が受諾の旨を返信したと同時に、トリトン二二は既にちゃっかりとコーデリア〇一との情報連結に入っていた。
 トリトンは群司令が許可しない筈がないと、その受信を待たずに先回りして情報連結信号を発信していたのである。
 彼我の相対距離と速度から生じる僅かなタイムラグすら惜しみ、それを逆に利用したのだ。
 公団の訓練校で使われる教則本の一頁に記されている光宙艦乗りの心得のひとつとされる"迅速を尊べ、拙速を厭うべし"の端的な実践例である。
 「さすがは貴官の悪友だな。貴官と行動規範が似ている」
「そうですね。小官が彼から学んだことは然程ありませんでしたが、彼が小官から学んだことは終生、彼の依るべき指針となり得るでしょう」
 緊急事態の発報を受けてから後、ずっとブリッジに常駐しながら、それまで自身で必要と認めない限りは存在感を消していたコーデリア〇一の副長を務めるサーシャ・ソビエスキー二等宙佐が堪えられなくなって、思わず吹き出した。
 基本、弁舌ではなく行動を以って部下と直属の上官の範となるべく、寡黙な副官としてエミリアに付き従っている名実ともに由緒ある貴族出身の令嬢たる彼女は、その実、この直属の上官には何の遠慮もない人物として艦内では一定の評価を得ていた。
 彼女の副官としての最大の仕事は艦長の首に鈴をつけておくこと、と部下たちも囁き合っている。
 あれでもカートライト艦長は仕事はきちんとする人だ。
 だからそれ以外の時は、鈴でもついていれば、我々もあの毒気の被害を被らずに済むと云う訳だ。
 そしてクルーの誰もがそれを成し得る人物はソビエスキー副長以外にはあり得ないと云う点で意見の一致を見ていた。
 曰く、副長に往復ビンタを食らっている艦長を見た奴がいる。
 曰く、副長が艦長に今日は夕食抜きだと説教していたのを需品科員の誰かが聴いたらしい。
 曰く、実際に艦長の首に鈴がついているのを見たと云う話をしている奴を知っている。
 曰く……。
 全て、誰かに聞いた話、つまりは伝聞系のそれなので、まぁ、信憑性もその範疇なのだろうが、それは裏返せば、寡黙な副長サーシャ・ソビエスキー二等宙佐への部下たちの信頼の証がそう噂させるのだし、彼女の精勤ぶりを誰ひとり疑っていない証左でもある。
 悪い噂は光速限界を突破して過去に遡ってでも伝播するが、良い噂がこれだけ広く伝わる人物は稀である。
 それは噂であっても、彼女自身への確かな評価あってのものなのだから。
 なお、副長が思わず吹き出した件は、エミリアにとってかなりの衝撃だったらしく、仕事はきちんとする艦長としての側面を顕現させ、ひたすら職務に精勤させる効果をもたらした。
 だが、それでも半日とは保たなかった。
 あれでも仕事はきちんとする艦長のエミリア・カートライト一等宙佐に対してのみ鬼の副長と謳われたサーシャ・ソビエスキー二等宙佐の矜持は、ポーランドの名門貴族の出自としてのそれが誹りを受けた時よりも、いたく深く傷ついたらしい。

(続く)

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