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お盆とキリスト信仰の向き合い方

こんにちは。
今回は太陽暦八月の恒例行事であるお盆について述べます。

先ず、お盆とは仏教では、盂蘭盆会や盂蘭盆を略した言葉とされています。語源は、サンスクリット語のウランバナ(逆さに吊り下げらた苦しみ)を意味します。釈迦の弟子である目連尊者が亡くなった母を救うという作り話から由来しているそうです。

盂蘭盆はサンスクリットavalambanaの転訛したullambanaの音写とされ,倒懸(さかさづり)の意で,《盂蘭盆経》によると,目連が餓鬼道に落ちた母の倒懸の苦しみを救おうとして,釈迦の教えに従って祭儀を設けて三宝に供養したことが起源であると説かれてきた。

コトバンク
kotobank.jp

目連は神通力を使って、亡き母が餓鬼道という地獄に落ちたことを知り、亡き母を救えないかと釈迦に教えを乞うたそうです。そこで釈迦が旧暦の七月十五日(現在の太陽暦では八月中旬)に心から供養すれば、三途の苦しみから救えるやろうと教わり、それを実践し、無事に亡き母が極楽往生を遂げたと言われています。この作り話のお経が日本に伝わり、先祖の霊が帰って来る日として親戚一同が集まって迎え入れ、供養するようになったそうです。

お盆の由来がこのような作り話からやとは思いもしませんでした。皆様はご存知でしたか。私も実家が仏教やったので未だに曾祖母が唱えていた念仏を口に出して唱えられるくらい記憶に残っています。仏を信じていたわけではないですが、お盆は家族で集まって花を供え、仏壇に線香を立て、祈ったり日々の報告をしたりした後、故人の話をしながら食事をし、思い出に浸りながら家族との絆を深めるものと勘違いしていました。墓参りについてはお盆に関係なく年に四回程一人で行くか今の夫が付いて来ていましたが、その頃はキリスト者を目指していなかったので、墓の掃除後に故人の好きやった飲み物と食べ物を供え、手を合わせてから持って帰り食べていました。ですがこのような行いを主なる神は望まれていません。聖書にはこう書かれているからです。

旧約聖書 出エジプト記 二十章三節~五節 ミカエル氏訳

あんたはいかなる像を造ってはならない。上は天にあるもの、地にあるもの、また地の下の水の中にある、いかなる物の形を造ってはならない。あんたはそれらに向かって拝んだり、それらに仕えたりしてはならない。我は主、あんたの神であり、不信仰を許さない神であるからや。我を憎む者には先祖の罪をその子孫の三代、四代までも問うが、我を愛し、我が戒めを守る者には、幾千代に慈愛を示す。

カトリック、統一教会、神道、仏教、イスラム教等はすべて嘘
https://ameblo.jp/leo085/entry-12256080288.html

旧約聖書 詩篇 百十五章 四節~八節

彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず鼻があっても嗅げない。手があってもさわれず足があっても歩けない。喉があっても声をたてることができない。これを造る者も信頼する者もみなこれと同じ。

新改訳二千十七
「聖書と主イエスの教えは嘘ではなく、真理です」
https://ameblo.jp/leo085/entry-12265023043.html

再度、ミカエル氏の記事を引用します。使徒言行録十五章二十節にある偶像に供えられたものについてミカエル氏が原語から訳して分かり易く解説してくださっているので必ず目を通してください。

新約聖書 使徒言行録十五章十九節〜二十一節 ミカエル氏訳

それ故、我は、異邦人たちの中から神に向き直る人らを悩ましたらあかんと考える。せやけど、彼らに偽りの神々の悪影響、婚外性交、絞め殺されたもの、血から離れるように書いた。太古の時代から、モーセは都市に彼(モーセ)を公に語る者たちを持ち、安息日毎に諸会堂で読まれてるからや。
上記の拙者の訳を市販の聖書の訳と比較してみぃや。大きく異なるのが分かるやろ。市販の聖書は誤訳だらけやし、それがあまりに酷いと、もはや嘘になってる。使徒言行録十五章二十節は、新共同訳では「偶像に供えて汚れた肉」と訳され、口語訳は「偶像に供えて汚れた物」って訳された。何これって感じですよ。そないな言葉は原語には書かれてへんからね。肉に限定する言葉も一切あらへん。拙者が訳した「偽りの神々の悪影響」とは、聖書の主なる神がほんまもんの神であり、それ以外は全部「偽の神々」にあたり、偶像もその類やし、人間崇拝も天使崇拝もそれに当たるし、太陽・月・星といった天体崇拝もあかんし、八百万の神などと自然(被造物)崇拝もけしからん。被造物を崇拝すること全般が律法で禁止される偶像礼拝や。律法に書かれてるとおり、また主イエスが教えはったように、ただ創造主の神である主に従い、礼拝せい。さっきの使徒言行録十五章二十節と二十九節は異なる。拙者の訳や原語を見ても分かるように、二十節は「偶像に備えられた」等という文言は無いねんけど、二十九節には出てくる。何この矛盾ってこと。おかしいんですよね。二十節の偽の神々(それを偶像と言うし、木や石や金属等で造られた偶像や人間や悪魔(堕天使)も含む)と拙者が訳した原語はεἰδώλων(アイドラン)やが、二十九節の原語はεἰδωλοθύτων(アイドラテファース)で、「偶像に献げられたもの」となる。同じ言葉ではないんですよね。また、二十節の「悪影響」に当たる原語はἀλισγημάτων(アリースゲマ)で、「悪影響、汚染」という意味や。言い換えただけと強弁する人も居るかもしれへんけど、悪影響や汚染って、別に偶像に備えられるだけの場合に限らへんさかい、一緒ちゃうで。「偶像に備えられたもん」なんて、ごく限られた場合にしか適用されへんし、そもそも、偶像に備えられたかどうかなんて見てへんかったら知らんがなってことやろ。(中略)逐一訊いて確かめられるとも限らんし、明らかにこれは「墓参りで備えたもんや」、「仏壇に置いてあったもんや」、「神棚に置いてあったもんや」等と言われへん限り、またはそれを知ってるのではない限り、普通に食べてええと思う。

偽使徒パウロの反キリスト教義一
https://ameblo.jp/leo085/entry-12700911285.html

上記のミカエル氏の解説により、明らかに墓参りで供えたり、仏壇に供えたものを私は聖書を読むまで何の疑いも持たず飲食をし、今まで数多くの過ちを犯してきました。仏教徒が多い日本では大多数の人が経験したことがあると思います。聖書を読まなければ善悪の判断がつかないことも痛感しました。また、供えられたものについて思い出したことがあるのですが、英吉利の俳優トム・フェルトン氏が東日本大震災時に、被災地に祈祷された温泉卵を贈られことをご存知でしょうか。私は去年頃に知ったのですが祈祷された温泉卵ということは神棚に置いてあったもんであると憶測できます。トム・フェルトン氏についてはこの件でハリーポッターという映画に出演されていたという程度しか知らないので聖書を読まれているかは不明ですし、祈祷については本人の要望であるか定かではありませんが、聖書を知らなければせっかくの善意も罪となってしまうとこのことからも学びました。このような過酷な状況下に置かれている中、信仰を理由に断ることが出来るのかもとても重要やと思います。お互いに罪を犯さないように気を付けていきましょう。

https://moviewalker.jp/news/article/21616/

また、主イエスはそのように偶像を拝んだり、仕えたりする等主なる神ではないものを信頼し、頼りにする不信仰な者が次の世でどうなるのか私たちに前もって告げられています。

この世は仮の世であり、次の世が本番です。そして次の世は永遠に続きます。仏教の教えでは輪廻転生や六道輪廻等という生まれ変わってまたこの世に新たな存在として生まれると言われる説が当たり前のように世間では広まっていますが、これらはすべて嘘であり、その仏と呼ばれる釈迦等は元々は人です。神が創造された我々と同じ被造物であり、人間です。被造物である人間の教えが創造主の神より正しいのでしょうか。神が定めた律法、掟、戒めより正しいと思われるのでしょうか。ありえません。人間が決めた規則や法律は権力者の都合の良いように何度も変更されますが、神が定めた律法は永遠に不変です。聖書にこう書かれています。

マタイ五章十七節~十八節 ミカエル氏訳
我が来たんは律法や預言者を廃止するためやと考えたらあかん。廃止するためやのうて、実現しに来たんや。確かにあんた方に言うておく。すべてのことが起こるまで、天地が滅びるまで、律法から一点一画も消えることはない。

偽使徒パウロの反キリスト教義 七
https://ameblo.jp/leo085/entry-12734880055.html

上記の聖句で主イエスが仰っているとおり、神が人間を想って定めてくださった律法は現在も廃止されておりません。(※律法の一部において主イエスの十字架により廃止、緩和、変更された制度もあります。)律法廃止論を唱える者が大多数であり、ミカエル氏のように律法遵守を公言されている方はミカエル氏と教会員の方々、教会を目指している兄弟姉妹だけです。ミカエル氏の教会員である真氏の記事から律法の一部を載せてくださっている画像をお借りします。

「嘘は滅びをもたらすが、真理は人を救いに導く」
https://ameblo.jp/makotowomotomeosameru/entry-12824627230.html

皆様は律法の一部を見てどのように思われましたか。束縛のように感じましたか。これらの一部を見ても良い法であると分かると思います。なんなら普段からこれらの一部を意識せずとも守っている日本人は少なくないと思います。聖書を知らなければ神を知ることが出来ず、安息日や房付きの和服を着用する等は守れないと思いますが、人を殺さない、盗みをしない、両親を敬う、誘拐、人身売買をしない等いくつも当たり前に守っていると思います。このことからも神の律法、掟、戒めを守ることは難しいことではないことが分かります。なので、私は人間が作った仏教の教えを守るのではなく、神が定められた良い法を守るべきやと思います。そうすると自然とお盆や葬式に坊主を呼んだり等の仏教から遠ざかっていけるはずです。今まで特に何も考えず、行っている行事や風習はたくさんあると思います。私もミカエル氏のブログに出会うまではそうやったのでよく分かります。聖書を知ると今まで良いとされていたことが真逆であったりと混乱する気持ちもよく分かります。このように一見良いように思えても起源を知ることによって聖書では罪であったと知り、罪から離れやすくなります。そのために私は日本の行事や風習の起源をこのブログで述べています。ですがこれらは本質ではなく、聖書を読まれたことがない方々に向けた内容となっております。真理を知りたい方は是非、ミカエル氏のブログ(https://ameblo.jp/leo085/entrylist.html)を読み、学ぶことをお勧めします。お盆については「先祖を供養しないのか」、「家族で集まって墓参りに行くのが当たり前」、「仏壇に線香をあげなさい」と家族から厳しく言われる方もいらっしゃると思いますが、人ではなく創造主の神を畏れ、信仰を貫きましょう。

憲法改悪も差し迫っており、残された時間はほんまにもう長くありません。時間がある内に聖書を手に取り、世に期待するのではなく、主イエスの再臨に希望を持って日々悔いのないように生きましょう。


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