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なぜあなたの習った歴史は「つまらない」のか?―E.H.カー『歴史とは何か』から考える―

おそらく、日本に住む人々が高校までに習う科目の中で、最も誤解されている科目は歴史である。

「過去のことを知っても意味がない」「単なる暗記科目でつまらない」と人が歴史について述べるのを、あなたは多く耳にしたことがあるだろうし、あなた自身もそう思ってきたかもしれない。だが、それは大きな間違いである。そう思うのは、あなたが歴史について思い違いをしてきたからなのかもしれないのだ。

今回の記事では、「現代における最も新しい、最も優れた歴史哲学の書物」と評される、イギリスの歴史家E.H.カーの『歴史とは何か』(原題:WHAT IS HISTORY?)を基に、なぜ多くの人々が歴史をつまらないと感じてしまうのか、そしてどうすればこうした認識が改められるのかについて考えてみたい。なお、以下に引用する文章は、すべてE.H.カー『歴史とは何か』(1962年、岩波新書、清水幾太郎訳)による。

歴史とはそもそも何なのか

なぜ歴史をつまらないと感じてしまうのかを明らかにするために、まず歴史とは何かについてもう一度考えよう。歴史の教科書を思い出してほしい。歴史の教科書の文章はほとんど「いつ、どこで、だれが、~をした」という情報で構成されている。そして、これらの情報をあなたは「歴史的事実」として覚えるよう促され、ひたすら暗記に励むことを求められる。この作業が、一部の歴史好きの人間を除いては、ただただ苦痛であると感じられる。

悲しいかな、多くの人がここで、ある間違った認識を得ることになる。それは、「教科書に書いてある歴史的事実=歴史」という認識である。まるで最初から確固たるものとして歴史が存在したかのように錯覚してしまうのだ。多くの人が、数学という学問を人が作ったことを知っている一方、歴史もまた人によって作られたのだということを明確に意識している人はあまりいない。

「ブルース・リーの息子で俳優のブランドン・リーが、映画『The Crow』の撮影中、空砲のはずだった銃で撃たれて死亡した」という事実と、「第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがダラス市内をパレード中に銃撃され、死亡した」という事実は、同じように過去の事実であるはずだ。しかし、教科書に載るのは後者だけである。なぜだろうか?答えは明快である。歴史家がこれらの事実を解釈し、後者を取り上げるべき事実として判断を下したからである。

始めから歴史が存在するのではない。歴史家が解釈し、取り上げるべきという判断を下した事実が「歴史的事実」になるのである。このことを多くの人は忘れてしまっている。E.H.カーは、次のように述べている(p.27)。

・・・私たちが歴史の書物を読みます場合、私たちの最初の関心事は、この書物が含んでいる事実ではなく、この書物を書いた歴史家であるべきであります。

歴史とは、確定している事実をただ並べたものではない。そこには必ず歴史家の解釈と判断が含まれており、歴史家を研究せずには歴史を研究したことにならないのだ。歴史家と歴史的事実が切り離されているという、歴史の教科書の問題点が明らかになった。

では、歴史家さえ研究すれば歴史を研究することになるのだろうか。歴史家は解釈と判断を行うが、その基準は歴史家の主観によるものであり、その主観は、歴史家が生まれ落ちた時代や社会に大きく影響を受けている。それゆえ、歴史家が生きた時代やその当時の社会を研究せずには、歴史家を研究したことにはならないのだ。E.H.カーは、次のように述べている(p.61)。

「歴史を研究する前に、歴史家を研究して下さい。」今は、これに附け加えて、次のように申さねばなりません。「歴史家を研究する前に、歴史家の歴史的および社会的環境を研究して下さい。」歴史家は個人であると同時に歴史および社会の産物なのです。歴史を勉強するものは、こういう二重の意味で歴史家を重く見る道を知らねばならないのです。

歴史とは、人間の行動の解釈を通し、時代を遡って社会とその社会に生まれた人々を追う、浩瀚かつ深遠な社会科学的営みなのである。

なぜ歴史をつまらないと感じてしまうのか

上で考えたことから、なぜ歴史をつまらないと感じてしまうのかについて、次のように答えられるのではないだろうか。

歴史は、①文献を読み解く②時代や社会を研究する③その時代や社会に生まれた歴史家を研究する④歴史家が解釈し歴史的事実であるとした事実を研究するという、4つの段階から成り立っている。本来の歴史研究というのは①→②→③→④の流れで行われるべきものだが、学校の歴史では④しか扱われない。「歴史家に解釈された歴史的事実」を「確定した歴史的事実」として暗記することを強制されるだけの歴史は、当然、つまらないと感じられるのである。それはまるで、作り手の姿も顔も一切わからない無機質な料理を、延々と食べ続けるようなものである。食べる側からすれば、その人が食通でない限り、これほどの苦痛はあるまい。

こうしたことを小学校から続けていれば、歴史とは「単なる暗記科目」「意味のない科目」と思われるのは仕方がないのではないだろうか。歴史とは本来、世界に開かれた、創造的な科学ではなかったのか。

歴史に対する見方を変えるには

では、歴史に対するそのような見方を変えるために、何ができるのだろうか。私としては、歴史研究の本来の在り方を、教育の中において取り戻すのが最善だと思う。すなわち、歴史の4段階中④のみを扱うのではなく、①・②・③も扱うようにするのである。とにかく、④の歴史的事実の暗記が歴史の主体と感じられないようにすることが必要である

例えば、真珠湾攻撃について日本人歴史家と米国人歴史家が書いた日本語と英語の文章を読み、両者の共通点・相違点を洗い出してまとめ、それに加えて、生徒が持っている知識から新たな見方を提示するように求める問題を出題するとしよう。これは従来の日本史の試験とはまったく異なる試験である。これまではただの正誤問題や語句問題でしかなかった歴史という科目が、文献調査、過去の歴史家の見解の総括、そして自分で「歴史的事実」を創る科目になるとすれば、歴史は途端に科学へと転換する。これまで歴史に対して間違った印象を抱いていた生徒も、歴史が社会科学の一環であることを実感し、歴史の奥深さに気づくであろう。

歴史的事実の暗記という低次の学習を脱却して、文献を解釈し、先行研究を踏まえて新たな歴史を創るという、より高次の学習へと歴史教育の方向性を切り替えねばならない時期に来ているのではないだろうか。

それと同時に、歴史教育を受け終わった人々の歴史観についてもアップデートしていく必要があるだろう。歴史に対する社会全体の偏見を打破し、各人が歴史をより一層身近なものとして捉えていかなければならないのである。

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