小説『引き出しの中身』(作:こね)
マスクに絵を描くのが好きだ。折り畳まれた不織布を丁寧に開き、折り目を指で潰しながらなぞる。鍵を開けてアクリル絵の具を取り出し紙パレットを一枚めくった。白くツルツルした表面を乾いた筆で撫でながら、何を描こうか夢想する。
傘の内側から見る今日の街は暗くて静かだった。色を奪った雨粒は木々の緑をより鮮やかに際立てて、僕のズボンをじっとりと濡らした。マスクの内側はひどくこもって、不織布が顔にまとわりついてくるようだった。くしゃみをしないように息を詰めて、帰り道を友達と歩いていた。僕の不安をよそに、何がおかしいのか彼は体をのけぞらせるようにして笑っていた。だから僕も同じノリに自分をチューニングした。空っぽな頭の端で蜘蛛の巣が雨に濡れている。描くものが決まった。
絵の具のチューブを絞る。アクリル絵の具に水を混ぜると不織布に上手くのらないから、色を混ぜるには少々コツがいる。塗り重ねれば濃くなるから初めは淡くていい。理想通りの色が出たらマスクの折り目の裏で少し試す。予想より少し濃いが、問題ないだろう。本格的に描き始める前に、細い筆で当たりをつけた。
あとはひたすら塗り重ねていくだけだ。筆先に自分を溶かしてマスクの上に塗り込んでいく。デコボコした表面が絵の具によって浮き上がり、凹凸の隙間に色が潜る。乾けば色は混ざらない。代わりに曲がれば剥がれ落ちる。
友人はなにがあんなにおかしかったのだろう。マスクから身を離して、絵を遠くから見ながら考える。とりとめのない会話をあんなに楽しめるのが普通なのか、彼もやはりどこか空虚だったのか。考えても答えは出ない。少し傾いていた遠景の庇を直しつつ、詰めていた息をふっと吐いた。
色を変える度に筆を洗っていたから筆洗の水はもう真っ黒だ。筆先の水を軽く拭って、紙パレットを捨てた。パリ、とカラフルな自我がゴミ箱に落ちる。筆を洗ってマスクを干した。チューブを箱に詰め直し、引き出しにしまって鍵をかける。マスクと並べて鍵を置いた。ヌラついた金属の光沢が、絵に微かな陰影を落としている。